天尾完次
天尾 完次(あまお かんじ、1933年(昭和8年)9月20日 - 2011年(平成23年)7月3日)は、日本の映画プロデューサー。山口県出身。早稲田大学卒業。[1] 経歴1933年9月20日、山口県生まれ。早稲田大学文学部国文科卒業。小説家志望だったが、石原慎太郎『太陽の季節』(1955年)に打ちのめされて文学を断念、映画界に活路を求めた。[2] 1956年、東映に入社。京都撮影所で量産体制のピーク期にあった時代劇の進行主任を多数つとめ、内田吐夢監督を師と仰いだ。プロデューサーとしての第一作は『若さま侍捕物帖 お化粧蜘蛛』(1962年)。その後、『十三人の刺客』(1963年)、『武士道残酷物語』(1964年)、『十一人の侍』(1967年)等、批評家から高く評価される作品を手がけたが、興行的には振るわなかった。天尾は良い映画を作るが、客を呼べるプロデューサーではない、と社内で評された。[3] 転機が訪れたのは1968年、映画本部長兼京都撮影所長だった岡田茂の指示で、当時興行的に隆盛を極めていたピンク映画を東映でも製作することになり、天尾に白羽の矢が立った。元文学青年の天尾は釈然としない思いにとらわれたが、初めて石井輝男監督と組んで作った『徳川女系図』が大ヒットした。[2]「商売の天才」と天尾が称賛する石井監督との共同作業を通して目から鱗が落ちた天尾は、『徳川女刑罰史』(1968年)、『徳川いれずみ師 責め地獄』(1969年)等を立て続けにヒットさせ、客を呼ぶプロデューサーに変身した。[3] しかし、石井・天尾コンビの異常性愛路線は、撮影所の内外から激しいバッシングを浴びた。四面楚歌、孤立無援に追い込まれた天尾は、任侠映画路線への対抗意識と意地でこの難局を乗り切ると、池玲子と杉本美樹を起用してピンキー・バイオレンス路線を牽引した。鈴木則文監督『温泉みみず芸者』(1971年)では、当時日本ではまだ一般的ではなかった「ポルノグラフィ」という英語から「ポルノ」という造語を考案、池玲子を日本初の「ポルノ女優」として売り出した。[4] 1973年に東映東京撮影所の企画部長に就任してからは、『新幹線大爆破』(1975年)、菅原文太主演『トラック野郎』シリーズ(1976~79年)、『二百三高地』(1980年)等の話題作、大ヒット作を世に送り出した。 2011年7月3日没。 2013年11月には、シネマヴェーラ渋谷で代表作の特集上映「追悼!天尾完次」が行われた。 フィルモグラフィー映画
テレビドラマ
オリジナルビデオ
著作
出典
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