スパルタの海
『スパルタの海』(スパルタのうみ)は、戸塚ヨットスクールを題材としたノンフィクション及び映画化された作品である。 概要『スパルタの海 甦る子供たち』は中日新聞文化部の企画によりノンフィクション作家の上之郷利昭がヨットスクール合宿所に泊まり込んで取材し、『中日新聞』『東京新聞』両紙に半年間にわたって連載[1][2]。この連載を中心に、『中央公論ノンフィクション特集』の「そして子供たちは病んだ」の一部を加え、さらに加筆再構成された単行本が1982年に東京新聞出版局(中日新聞東京本社)から刊行された[1]。 戸塚ヨットスクールの実態と、家庭内暴力や登校拒否児などが実際に立ち直っていく様子を描いた。スクールでは既に2名の死亡事件が発生したが、1名の死亡事故に関して名古屋地方裁判所が不起訴処分とする1981年末で幕を閉じる。生徒や父兄は一部を除いて仮名の扱い[1]。 新聞連載時は、育児に悩む読者が自分の子供を立ち直らせようとスクールへ入校させたいとの希望が殺到する反響があり[1]、ヨットスクール側の出す資料に基づいたヨットスクールのPR本だとの批判を受けた[3]。 映画
上之郷の原作を1983年に主演・伊東四朗、監督・西河克己、東和プロダクション(東宝東和)製作で映画は完成し[4][5]、1983年9月に東宝配給で公開される予定だった[6][7][8]。しかし映画完成後、戸塚宏校長が逮捕される等の影響で公開中止となり[9]、そのままお蔵入りになった[4][8][6][10][11]。その後、有志による上映などを経て、制作から28年後の2011年にアルバトロス配給で全国劇場公開された[10][9]。 キャスト
主題歌「ジャスト・フォール・イン・ラブ」
製作企画企画は東映の社員プロデューサー・天尾完次[4][7][9][12][13]。天尾は岡田茂東映社長の懐刀と言われた人だったが[9][14]、当時フリーの西河克己監督と組みたくて[4][15]、本作の前に『生きてん母ちゃん』という企画を西河と東映で作ろうとしたが[4][15]、岡田社長に蹴られていた[12][15]。諦めきれない天尾は1982年に『誘拐報道』を企画した後[15]、同じ実録映画を探し[15]、当時社会問題化していた戸塚ヨットスクールに目をつけた[9][15]。しかしまた岡田社長に東映での製作を蹴られたため[12]、岡田から外部での製作許可を取り[12]、東宝東和と組んで本作を製作した[6]。製作費1億円[2][13]。 脚本天尾が西河克己に原作を渡し、西河が監督を引き受けた[4]。天尾は原作と同じくドキュメンタリータッチを希望し、シゴキシーンも生々しく描くと発表されていた[7]。監督の西河はフィクションのドラマ仕立てにし、天尾があくまでもシリアスなタッチでやりたいと拒否したため[4]、野波静雄の脚本で撮影されることになり、ロケハンに出掛けた[4]。西河は交通事故死した息子が不登校で高校中退したというヨットスクールの父兄と共通する問題を抱えた過去があり、意欲的に映画化に取り組んだ[2]。しかし、「結局俳優によるドラマ仕立てになり、どっちつかずの中途半端な出来になった」と西河は反省の弁を述べている[4]。 キャスティング主演は戸塚ヨットスクールを支援する会の理事でもあった伊東四朗を起用[5][15]。 撮影1983年3月16日クランクイン[13]。撮影はほぼ現地ロケで、出演者は毎回知多半島に通った[16]。愛知県美浜町を中心にロケがあり[13]、4月中旬に一部東京都内ロケ[13]。製作決定の時点ですでに訓練生二人が死亡[15]、二人が行方不明という異様な状況下での撮影だった[15]。伊東はヨットに乗ったことがないのに、ヨット名人の設定で、クルーザーで波すれすれに傾いだり、2月の海に飛び込むなど「撮影は本当に怖かった」と話している[16]。伊東は賛否両論のあった題材に「やって良いものか悪いものなのか疑問だった」と葛藤があったことを告白した[2][17]。伊東は記者会見で「あんな映画にどうして出るんですか」と言われたため「どこがいけないんですか」と開き直った[16]。 興行東宝東和は夏休みに洋画大作があったため[4]、1983年9月の公開を予定していた[5][6]。しかしスクールの問題が刑事事件化した戸塚ヨットスクール事件により4月にはコーチ6名が、6月にはさらに校長の戸塚宏とコーチ15名が逮捕された。戸塚ヨットスクール側からの視点で作られているため、大方の世論とは対立し[6]、上映禁止運動も起こった[18]。東宝東和は製作側なので強気だったが[6]、東宝興行部が公開に難色を示した[4][6]。東宝東和は『エレファント・マン』『ブッシュマン』などのヒットで数年来業界トップの座にあったが、製作総指揮の梶原一騎、主演の萩原健一と相次いで二人の逮捕者を出した『もどり川』に続く難問に頭を痛め[7]、映画を公開すれば賛否両論どころか、社会的な指弾を浴びると判断[7]、公開を断念した[4][7]。東宝東和は映画業界から"タタリの東和"と呼ばれた[7]。仕上げは東映のスタッフと東映東京撮影所で行ったため[4]、「今公開すれば、確実に5億は稼げる」と東映幹部は口惜しがっていたという[4][8]。戸塚宏が警察、検察庁の調べに完全黙秘を続けたことから裁判の見通しも立たず[6]、結局、公開を断念してお蔵入りさせた[4][7]。 作品の評価映画評論家の山根貞男は「活劇としての素晴らしさに目を瞠った」[19]、「清々しい青春映画」[8]など評価した。『キネマ旬報』誌の5つ星満点のレビューでは、石井加奈が戸塚への教育論への賛同ではないとしつつ4つ星、村山匡一郎は「珍品」と星が2つ星、吉田広明は1つ星をつけた[20]。木全公彦は「その企画力には驚嘆するしかない。製作委員会方式の映画製作が跋扈し、誰もがスポンサーの顔色ばかり伺っている現在では失われてしまった映画本来のいかがわしさとでもいうべきか」などと評価している[8]。 その後の経過制作から20年以上封印状態にあったが[15]、戸塚ヨットスクールを支援する会が2005年春に試写会を開催し、続けて同年秋に東宝東和から著作権を取得[15][21]。これによって『スパルタの海』管理委員会が著作権者となり、同年にリッチモンド企画から会員向けにビデオとDVDが発売された[15]。 2007年にシネマヴェーラ渋谷の特集上映の1本として数日間上映された[22]。 制作から28年後の2011年10月29日からアルバトロス配給でシアターN渋谷を皮切りに全国で順次劇場公開がなされた[22]。 テレ放映関連項目脚注
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