八束村 (千葉県)
八束村(やつかむら)は、千葉県安房郡(平郡)にかつて存在した村である。現在の南房総市の西部(旧富浦町)に位置している。 地理1926年(大正15年)時点の八束村は、東に平群村・滝田村、南は那古町・船形町、西に富浦村、北は岩井村と境を接していた[1]:1045。当時、村は丹生(にゅう)・深名(ふかな)・青木(あおき)・福沢(ふくざわ)・宮本(みやもと)・大津(おおつ)・手取(てどり)・居倉(いぐら)[注釈 1]の8区に分けられた[1]:1045。 南房総市においては、合併前の町村によって市域を7地区に分けており[4]、旧八束村域は「富浦地区」に含まれる。南房総市社会福祉協議会では、小学校区や中学校区(おおむね町村制発足時の町村)をもとに市域を16地区に分けており(2018年現在)、「八束地区」の区分と呼称が使われている[5]。 歴史![]() (※1897年に平郡・朝夷郡・長狭郡を安房郡に編入) 1.北条町 2.館山町 3.豊津村 4.西岬村 5.富崎村 6.長尾村 7.豊房村 8.神戸村 9.館野村 10.九重村 11.稲都村 【平郡】21.凪原村〔のち那古町〕 22.船形村 23.八束村 24.富浦村 25.岩井村 26.勝山村 27.保田村 28.佐久間村 29.平群村 30.滝田村 31.国府村 【朝夷郡】41.白浜村 42.七浦村 43.曦村〔のち千倉町〕 44.健田村 45.千歳村 46.豊田村 47.丸村 48.北三原村 49.南三原村 50.和田村 51.江見村 【長狭郡】61.太海村 62.大山村 63.吉尾村 64.由基村〔のち主基村〕 65.田原村 66.鴨川町 67.曽呂村 68.西条村 69.東条村 70.天津村 71.湊村〔のち小湊町〕 現在の行政区画 赤:館山市 桃:鴨川市 紫:南房総市 橙:鋸南町 明和7年(1770年)、当時安房勝山藩領であった金尾谷村の名主忍足佐内が、領主酒井忠鄰に年貢減免を直訴し、翌明和8年(1771年)に白塚川原で処刑された(勝山藩西領騒動)。 1875年(明治8年)、金尾谷村・白坂村が合併し福沢村となる[1]:1046[7]。1877年(明治10年)、東青木村・西青木村が合併し青木村となる[7]。 1889年(明治22年)、町村制の施行にともない、丹生村・宮本村・大津村・居倉村・手取村・福沢村・深名村・青木村の8村が合併し、八束村が組織された[7]。村名は新たに制定されたもので、8か村を束ねたこと[7]、また「八束穂」の語[7][注釈 2]から採られている。 1899年(明治32年)には義民忍足佐内を顕彰する「忍足佐内之碑」が建立された。 1918年(大正7年)、村域南部を通過する木更津線(現在の内房線)安房勝山駅 - 那古船形駅間が開業した。村域内に駅は置かれなかったが、富浦駅が西側の近傍(富浦町)に開業した。 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災においては、八束小学校が倒壊した[8]。 1955年(昭和30年)、富浦町と合併し、八束村は廃止された。 旧村域はその後、2006年(平成18年)に南房総市の一部となった。なお、南房総市役所(旧富浦町役場)は旧八束村の村域(富浦町青木)に置かれている。 行政区画・自治体沿革
経済1888年(明治21年)に記された分合取調文書によれば、各村とも農業を営んでいる[7]。 1926年(大正15年)の『安房郡誌』によれば、主要産業は農業で、副業として畜産も盛んとされる[1]:1046。このほか、木材薪炭の製造、ビワの栽培が挙げられている[1]:1046。 教育
名所・旧跡・祭事
その他
脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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