佐野政言佐野 政言(さの まさこと、 宝暦7年(1757年) - 天明4年4月3日(1784年5月21日))は、江戸時代中期の旗本。通称、善左衛門。佐野政豊の子で、目付や江戸町奉行を務めた村上義礼は義兄(政言の妻の兄)。姉に春日広瑞室、小宮山長則室。10人姉弟の末子で一人息子であった。 概要佐野善左衛門家は、三河以来徳川家に仕えた譜代である五兵衛政之を初代として代々番士を務めた家であり、綱吉治世の1698年(元禄11年)より番町に屋敷を構えた[注 1]。政言はその6代目にあたる。父の伝右衛門政豊も大番や西丸や本丸の新番を務め、1773年(安永2年)に致仕し、代わって政言が同年8月22日に17歳で家督500石を相続した。1777年(安永6年)に大番士、翌1778年(安永6年)に新番士となる[2]。 天明3年(1783年)年の冬、将軍徳川家治の鷹狩りに供弓として選ばれる名誉を受け、雁1羽を射ち取りながらも褒賞にあずかれなかった[3]。同4年(1784年)3月24日、江戸城中で若年寄・田沼意知に向かって走りながら「覚えがあろう」と3度叫び、一竿子忠綱作の大脇差で殿中刃傷に及んだ[4]。その8日後に意知が絶命すると、同4月3日に政言は切腹を命じられ、揚げ屋敷で自害した[5]。数えの28歳[6]であった。 葬儀は4月5日に行われたが、両親など遺族は謹慎を申し付けられたため出席できなかった。佐野家も改易となり、遺産は父に譲ることが認められた。唯一の男子である政言に子が無かったことで佐野家は絶えたが、三田村鳶魚の日記によると、江戸末期、佐野家一族の者に政言の家の再興を認める沙汰が下りたが、幕末の混乱により再興は叶わなかったという(山田忠雄「佐野政言切腹余話」『史學』57巻4号、三田史学会、1988年)。 犯行の動機は、意知とその父意次が先祖粉飾のために藤姓足利氏流佐野家の系図を借り返さなかった事[注 2][要出典]、下野国の佐野家の領地にある佐野大明神を意知の家来が横領し田沼大明神にした事、田沼家に賄賂を送ったが一向に昇進出来なかった事等々、諸説[注 3]あったが幕府は乱心として処理した[9][11][13]。 影響田沼とその倹約令を嫌う風潮があった市中では跡継ぎを斬ったことを評価され、世人からは「世直し大明神」[4][14]と呼ばれ崇められた。高止まりだった米の相場は投機筋の売り参入で刑の翌日から下落し財政は逼迫、やがて天明6年(1786年)の処分を経て田沼意次も失脚する[6](天明8年)。年が明け改元後の寛政元年(1789年)に黄表紙『黒白水鏡』(石部琴好作、北尾政演画)を出版すると、刃傷事件を表現したとして、版元と絵師が手鎖に処されたうえ、江戸払いと過料を申し付けられた[3][15]。 墓所は台東区西浅草の徳本寺(とくほんじ[6][16])。法名は元良印釈以貞。 関連作品
参考文献脚注注出典
関連項目関連資料発行年順
外部リンク
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