佐渡 (海防艦)
佐渡(さど)は、日本海軍の海防艦[3]。 普遍的には択捉型海防艦の3番艦とされているが[4]、海軍省が定めた艦艇類別等級では占守型海防艦の7番艦[5][6][7]。艦名は新潟県にある佐渡島にちなむ。 概要海防艦(かいぼうかん)佐渡(さど)は、日本海軍が日本鋼管株式会社鶴見造船所で建造し[4]、1943年(昭和18年)3月27日に竣工した海防艦(マル急計画、甲型海防艦)[8][9]。 竣工から間もなく姉妹艦松輪と共に第一海上護衛隊に編入され[10]、東南アジア方面(日本本土~台湾~シンガポール間)の船団護衛任務に従事した[4][11]。 同年11月15日、海上護衛総司令部の設立に伴い、第一海上護衛隊所属の本艦も同部隊の麾下となった[12][13]。 1944年(昭和19年)5月頃からヒ船団の護衛に加わり、大鷹型航空母艦と行動を共にする[14]。 8月16日より、第一海上護衛隊の掃蕩隊に所属[15][16]。 8月17日、佐渡および僚艦(択捉、松輪、日振、朝風)は台湾からヒ71船団に合流、空母大鷹等と共にシンガポールへ向かう[17][18]。 だがヒ71船団はアメリカ海軍潜水艦複数隻に襲撃され、8月18日夜から大鷹や速吸沈没等の大損害を受ける[19][20]。 対潜掃蕩に従事した海防艦3隻(佐渡、松輪、日振)も遭難現場からマニラへ移動中[17]、8月22日に米潜水艦2隻(ハーダー、ハッド)の襲撃により[21]、揃って撃沈された[22][23]。 艦歴竣工まで海防艦佐渡(さど)は、1941年(昭和16年)に決定したマル急計画により、日本海軍が建造した急造海防艦[24][9]。海防艦甲型[9]、仮称艦名第312号艦として計画。1942年(昭和17年)2月21日[1][2]、日本鋼管株式会社鶴見造船所で起工。 8月20日、日本海軍は建造中の阿賀野型軽巡洋艦を矢矧[25]、秋月型駆逐艦を若月、海防艦4隻をそれぞれ択捉・松輪・佐渡・隠岐と命名する[3]。 同日附で各艦は艦艇類別等級表に登録[5]。 海防艦4隻(択捉、松輪、佐渡、隠岐)は占守型海防艦に類別[5]。 佐渡は、占守型の7番艦となる[6]。 また、5隻(矢矧、択捉、松輪、佐渡、隠岐)の本籍は佐世保鎮守府所属と仮定された[26]。 1943年(昭和18年)2月20日、日本海軍は松林元哉中佐(当時、軽巡五十鈴副長。五十鈴は第三次ソロモン海戦での損傷を修理中)を佐渡艤装員長に任命する[27]。 2月24日、鶴見造船所内の佐渡艤装員事務所は事務を開始[28]。 3月27日、竣工[8][10]。松林中佐(佐渡艤装員長)は佐渡海防艦長(初代)となる[29]。同日附で、佐渡艤装員事務所は撤去された[30]。 本籍を佐世保鎮守府に定められる[10][31]。 本艦より先に竣工した松輪や[32][33]、3月27日竣工の佐渡は[10]、それぞれ南西方面艦隊麾下の第一海上護衛隊に編入された[9][34]。 一方で、同隊から転出する駆逐艦(春風、松風、三日月)や水雷艇もあった[34][35]。 昭和18年の行動1943年(昭和18年)3月27日をもって第一海上護衛隊に編入された佐渡は[10][35]、竣工当日に横須賀へ回航され、4月18日まで在泊[4][8]。整備作業中の4月1日、同隊軍隊区分北支隊に編入された。4月21日、門司へ回航。24日、J船団(7隻)を護衛し、門司発。29日、高雄着。 5月3日、258船団[注釈 2](6隻)を護衛し、高雄発。7日、門司着。12日、P船団(3隻)を護衛し、門司発。15日、高雄着。18日、第一海上護衛隊司令官の将旗を高雄庁舎から本艦に移揚し、263船団[注釈 3](9隻)を護衛し、高雄発。22日、門司着。27日、第一海上護衛隊司令官の将旗は高雄庁舎に復帰。31日、161船団(7隻)を護衛し、門司発。 6月4日、高雄着。8日、270船団(8隻)を護衛し、高雄発。門司の手前で分離し、佐世保へ回航。12日-27日まで、佐世保海軍工廠で修理に従事。28日、W船団(3隻)を護衛し、門司発。以後、門司-台湾-マニラ-シンガポールを結ぶ線での護衛に従事。8月1日、第一海上護衛隊の軍隊区分は廃止され、全艦が第一海上護衛隊司令官の直率となった[34]。 10月5日、佐渡海防艦長は松林元哉中佐から谷口信義中佐に交代する[36]。 11月15日、日本海軍は海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)を新編する[37]。第一海上護衛隊所属の本艦も同部隊の麾下となった[13][38]。佐渡は11月21日から佐世保海軍工廠で入渠整備をおこなう。12月、佐渡や択捉等は佐世保で修理と整備を実施(佐渡は12月下旬まで)[39][40]。12月31日、佐渡は「ヒ29船団」を護衛して門司を出撃した[40][41]。 昭和19年の行動1944年(昭和19年)1月4日から6日まで高雄港(台湾)に、9日から10日までマニラに立ち寄ったヒ29船団(護衛艦、佐渡)は、1月15日にシンガポール到着[42][43]。 1月19日、佐渡はヒ30船団を護衛して同地発[42][43]。30日から31日まで高雄港に立ち寄る[42][43]。 だがヒ30船団は米潜水艦タンバー (USS Tambor, SS-198)に襲撃される。 2月3日以降[44]、タンバーの雷撃によりタンカー五洋丸(五洋商船、8,469トン)[45][46]、 ありあけ丸(日本海運、5,149トン)[47][48]が撃沈された。「佐渡」は爆雷攻撃を行い「タンバー」に被害を与えた[49]。佐渡は2月6日から8日まで基隆市(台湾北部)に避泊[50]。「タモ01A船団」を護衛し、2月12日佐世保に到着した[50][44]。 本艦は、佐世保海軍工廠で修理と整備改造工事を実施(同時期、姉妹艦択捉も佐世保で整備中)[51]。 2月23日、佐渡は「ヒ49船団」を護衛して門司を出撃[50]。航海中、高雄港で海防艦占守がヒ49船団に合流する[44][50]。 3月6日から7日、佐渡はサンジャック(ベトナム)寄港[52]。占守は途中でヒ49船団から分離、佐渡とは別行動となる(シンガポール移動後、占守・択捉・三宅・壱岐でヒ48船団を護衛)[52][53]。 3月7日のサンジャック出撃時、「ヒ49船団」護衛艦は2隻(佐渡、汐風)となった[52]。 その後、「シサ01A船団」を臨時に護衛した佐渡は[54]、シンガポールに移動した[52]。 3月15日、護衛艦2隻(佐渡、汐風)は輸送船13隻で編成された「ヒ50船団」を護衛してシンガポールを出港[52][53]。18日、船団はサンジャックに到着し、20日に出港[52][53]。24日にマニラに到着し、27日に出港[52][53]。30日高雄港に到着[52][53]。 4月1日に出港、2日に馬公に寄港[55][56]。4日に出港[55][56]。8日に門司に到着した[55][56]。 その後、佐世保海軍工廠で修理と整備を実施[57]。 4月29日、第八護衛船団司令部は佐渡にて事務を開始する[58]。 5月上旬、佐渡は「ヒ61船団」に加わる[14][59]。 5月3日、第八護衛船団司令官佐藤勉少将(旗艦、佐渡)を指揮官とするヒ61船団は[59][60]、護衛艦(大鷹型航空母艦《大鷹》、駆逐艦《朝顔、響、電》、海防艦《佐渡、倉橋、第五号、第七号、一七号》)で加入船舶11隻を護衛し、門司発[14][61]。 5月8日、輸送船「あかね丸」が米潜水艦(ホー)の雷撃で小破したものの[61][60]、ヒ61船団はマニラを経由して[62]、17日(18日とする資料あり)シンガポールに到着した[14][61]。 だがマニラでヒ61船団より分離した日栄丸船団(駆逐艦《電、響》、タンカー《日栄丸、あづさ丸、建川丸》)は[61]、途中で駆逐艦電(第6駆逐隊)を米潜水艦ボーンフィッシュの雷撃で喪失した[63][64]。 5月23日、「ヒ62船団」は護衛艦(空母《大鷹》、海防艦《佐渡〔ヒ62船団旗艦〕、倉橋、第五号、第七号、一三号》)で加入船舶8隻を護衛し、シンガポール発[65][66]。マニラを経由して[60][67]、7-8日に六連および門司到着[66][68]。佐渡は佐世保へ回航し、7月8日まで主機械の整備を行う。 7月中旬、佐渡は「ヒ69船団」に加わる[69][70]。 7月14日、第五護衛船団司令官吉冨説三少将(旗艦、香椎)を指揮官とする「ヒ69船団」は、護衛艦(練習巡洋艦《香椎》、大鷹型空母《神鷹》、海防艦《千振、佐渡、第七号、一七号)で加入船舶14隻(航空機輸送任務の大鷹と海鷹を含む)を護衛し[70][71]、門司を出撃した[69]。 7月18日、一七号海防艦が潜水艦(タイルフィッシュ)の雷撃で小破、船団を離脱した(高雄に回航)[69][72]。他艦に被害なく、20日マニラ到着[69][73]。ここで輸送任務の空母2隻(大鷹、海鷹)は分離[70]。ヒ68船団等に加入して内地に帰投した[74]。 一方、ヒ69船団は護衛艦に海防艦2隻(一三号、一九号)を加えて25日にマニラを出撃[69][75]。7月31日、ヒ69船団はシンガポールに到着した[70][76]。 8月4日、吉冨少将(第五護衛船団司令官、旗艦香椎)を指揮官とする「ヒ70船団」は[70]、護衛艦(練習巡洋艦《香椎》、空母《神鷹》、秋月型駆逐艦《霜月》、海防艦《千振、佐渡、一三号、一九号》)で加入船舶8隻を護衛し、シンガポールを出撃[77][78]。 マニラから来た軽巡洋艦北上(第十六戦隊)が途中合流し、日本に向かった[79][80]。 8月12日午前8時頃、ヒ70船団は北緯26度19分 東経122度33分 / 北緯26.317度 東経122.550度地点で敵潜水艦を発見、佐渡・一三号海防艦と神鷹機が撃沈したと記録する[78][81]。ただし米国側に対応艦の記録はない[70][78]。 佐渡は同日よりヒ70船団から分離し、対潜掃蕩を行いつつ基隆へ向かった。 8月16日、第一海上護衛隊は軍隊区分掃蕩隊第三掃蕩小隊を海防艦4隻(佐渡、松輪、日振、擇捉)に改編し、同小隊は佐渡海防艦長の指揮下で行動することになった[15]。 沈没→詳細は「ヒ71船団」を参照
佐渡がヒ70船団を護衛中の8月上旬、日本海軍は南方向け重要船団ヒ71船団を編成していた[82][83][84]。 空母大鷹(艦長杉野修一大佐)[83][82]、駆逐艦2隻(夕雲型駆逐艦藤波、神風型駆逐艦夕凪)[17]、海防艦複数隻を護衛に附け[85][86]、第三掃蕩小隊(佐渡、松輪、日振、択捉)と駆逐艦朝風も台湾からヒ71船団に加わることになった[17][84]。 8月17日[83][84]、松輪を含め護衛艦艇(佐渡、松輪、日振、択捉、朝風)は馬公市(台湾、澎湖諸島)でヒ71船団に合流する[18][87]。 だが同船団はアメリカ潜水艦複数隻に狙われていた[88]。 マニラに向け航行中の8月18日朝、米潜水艦レッドフィッシュの雷撃で永洋丸が被雷[84]。駆逐艦夕凪護衛下で高雄に引き返した[18][89]。 同日夜、悪天候でヒ71船団の陣形が乱れる中[84]、空母大鷹が米潜水艦ラッシャーに雷撃されて北緯18度12分 東経120度22分 / 北緯18.200度 東経120.367度地点で沈没[82][90][91]。 混乱したヒ71船団を、米潜水艦は次々に襲撃[92]。速吸沈没(潜水艦ブルーフィッシュによる)[19]、帝亜丸沈没(潜水艦ラッシャーによる)[93]、帝洋丸沈没(潜水艦ブルーフィッシュによる)[94]、玉津丸沈没(潜水艦スペードフィッシュによる)[95]、能代丸損傷(ラッシャーによる)と阿波丸損傷(ブルーフィッシュによる)という大被害を出した[96][20]。 択捉は損傷した「能代丸」の護衛をおこなった(19日に合流)[87][89][97]。 第三掃蕩小隊(佐渡、松輪、日振)は遭難現場に留まり潜水艦の掃討にあたったが成果は無く[17]、21日には現場を引き払いマニラへ向かう[21][23]。8月22日0400ごろ[98]、小隊の各艦は北緯14度25分 東経120度00分 / 北緯14.417度 東経120.000度のバターン半島マリベレスの西方50キロ地点でアメリカ潜水艦「ハーダー」と「ハッド」に発見された。海防艦はルソン島寄りから松輪、日振が平行し、佐渡はその後ろを航行し、三角形の陣形を成していた[99]。攻撃は、0500時-0830時までの間に行われた。 まず、ハーダーが日振と松輪を目標に、ハッドが佐渡を目標に攻撃し、3隻は損害を受ける[100]。佐渡は、ハッド[101]からの魚雷1本が中央部に命中して航行不能となった[99][102]。その後、ハッドの三度目の攻撃でさらに被雷し、沈没した[102]。佐渡海防艦長の谷口信義中佐以下乗員73名が戦死した。 佐渡と同航していた松輪[11][32]および日振[103][104]も、ハーダーとハッドにより撃沈された[23]。 残存艦が択捉のみとなった第三掃蕩小隊は、24日に編成を解かれた[15][16]。同日、ハーダーはマニラ湾において、第二十二号海防艦と第102号哨戒艇により撃沈された[105][106]。 マニラ到着以後のヒ71船団は、加入船舶12隻を護衛艦艇6隻(平戸、倉橋、二号海防艦、御蔵、藤波、28号駆潜艇)で護衛し8月26日同地出発、9月1日シンガポールに入港した[17]。 10月10日[32]、海防艦2隻(松輪、佐渡)は占守型海防艦[7]、 帝国海防艦籍[107]のそれぞれから除籍された。 艦長
脚注
参考文献
関連項目 |
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