海上護衛隊

海上護衛隊(かいじょうごえいたい)は、旧日本海軍の部隊編制の一つで、太平洋戦争中に四個部隊が編制された。ここでは第一海上護衛隊を再編した第一護衛艦隊についても述べる。各部隊・艦隊の符号は、第一海上護衛隊が1KEg、第二海上護衛隊が2KEg、第一護衛艦隊が1EF[1]

概要

太平洋戦争序盤、日本海軍は西太平洋の連合国軍兵力を駆逐、南方資源地帯の占領に成功した(第一段作戦)[2][3]。続いて、長期不敗態勢を築く「第二段作戦」に移行する[2][4]。物資輸送量の増大と航路の長大化に対し、護衛に兵力を割かれることを嫌った連合艦隊軍令部に護衛専門部隊の編成を要望する[5]。現場の海上護衛担任部隊からも、輸送路の護衛部隊が担任海域ごとに交代する現制度の不利が指摘されるようになった[5]

1942年(昭和17年)3月27日、海軍大臣は「特設艦船部隊令」に特設海上護衛隊の制度を加えた[5]。4月2日、永野修身軍令部総長は昭和天皇に戦時編制改訂について上奏、この中で新設予定の海上護衛隊について解説した[5]。 4月10日、海軍は戦時編制の大幅な改定を実施する[6][7]。この中で、海上交通保護の一貫性と指揮の一元化という見地から、占領地の資源を輸送するシーレーン防衛を目的とした船団護衛部隊を編制した[7][8]。 これが第一海上護衛隊(東南アジア~内地担当、南西方面艦隊所属)と第二海上護衛隊(南洋諸島~内地担当、第四艦隊所属)である[7][9]。 しかし老朽艦艇特設艦艇が主力で対潜・対空装備が充実した専用艦艇が配備されず、兵力も少なかった[10]。連合軍による通商破壊が本格化すると対応できず、輸送船団に甚大な被害が続出した[11]。その後、新型海防艦の大量建造がすすむと各海上護衛隊に配備されたほか[12]、航空部隊も編入されるなど戦力の増強が図られた[11][13]

1943年(昭和18年)11月15日、海上護衛を統轄する海上護衛総司令部が新編されると[14](大海令第26号、大海指第299号)[11][15]、第一海上護衛隊・第二海上護衛隊とも総司令部の麾下に入った[12][16]1944年(昭和19年)6月から7月にかけてのサイパン島地上戦当時、第二海上護衛隊はサイパン島に司令部を置いていたため(二海護司令官は第五根拠地隊司令官の兼務)、サイパン陥落における日本軍玉砕[17][18]に司令部は全滅、7月18日に解隊された[19][20]

第三海上護衛隊は、1944年(昭和19年)5月20日に編制され[21]、東京湾と紀伊水道間の護衛を担当した(横須賀鎮守府部隊に編入)[22][23]。所属・指揮下兵力は、第一海上護衛隊にくらべて極めて貧弱であった[23]。同年11月末には空母信濃が、第三海上護衛隊の担当海域で沈んでいる[24]1945年(昭和20年)4月15日に解隊され、第四特攻戦隊に改編された[25]

第四海上護衛隊は、1944年(昭和19年)4月10日に佐世保防備戦隊を解隊再編して編制された(佐世保鎮守府部隊に編入)[26]。九州(佐世保、鹿児島)から南西諸島沖縄方面)への航路護衛を担当する[19][27]。編制当初、四海護司令部は沖縄方面根拠地隊司令部を兼ねていた[27][28]。所属部隊と兵力は弱小で米潜水艦による被害を防げず、8月22日には対馬丸を撃沈された。 1945年(昭和20年)2月下旬、沖縄方面根拠地隊(司令官大田実少将)は第四海上護衛隊から分離、四海護司令部を新編した[29]。米軍機動部隊の活動で戦力を喪失した第四海上護衛隊は、5月10日付で解隊されて第五特攻戦隊に改編された[25]

本稿では、4個(第一、第二、第三、第四)海上護衛隊とともに、第一海上護衛隊を発展解消した第一護衛艦隊[30](昭和19年12月10日新編、司令長官岸福治中将)[31][32]を合わせて述べる。

第一海上護衛隊

1942年(昭和17年)4月10日[33]、日本海軍は南西方面艦隊を新編する[8][34](司令長官高橋伊望中将、第二南遣艦隊司令長官兼務)[31][35]。 続いて大海令第十六号をもって南西方面艦隊司令長官に対し、海上交通保護の実施を命じた[5][36]。これにもとづき、攻略が完了した東南アジアと日本本土を結ぶシーレーンの船団護衛を実施するため、南西方面艦隊直率部隊として編成されたのが第一海上護衛隊である(略語、1KEg[33][8]。 大規模な部隊であるため、「艦隊」ではないにもかかわらず参謀部があり、参謀長が在籍する。守備範囲は、西航路・東航路・横断航路の3航路とされた。各航路は日本本土-上海・台湾航路までを共有し、そこからマニラミンダナオ島を経てボルネオ島経由でジャワ島を終点とする東航路と、香港海南島サイゴンを経由してシンガポールを終点とする西航路、サイゴンとマニラを直結する横断航路に分かれていた。

南西方面艦隊新設当時、同方面では日本軍の侵攻作戦(南方作戦)が終わって占領・統治・維持という段階に入っていた[35][37]。南西方面艦隊の固有兵力は極めて少なく[35]、当初から特設艦艇・老朽艦艇を主力としていた。新編時の第一海上護衛隊も同様で、旧式駆逐艦10隻、水雷艇2隻、特設艦船6隻、運航統制班20という状態だった[5]。第一海上護衛隊独力でシーレーンを保護することはできず、引き続き内戦部隊(各鎮守府、警備部、根拠地隊)が海上交通線の護衛・哨戒・防備に協力した[8][10]

南シナ海は1943年(昭和18年)頃までは散発的な潜水艦攻撃を受ける程度であり、もともとの所属艦艇のうち老朽艦の割合が高かったこともあって、新鋭海防艦への更新はなかなか進捗しなかった。1943年(昭和18年)11月15日に海上護衛総司令部[14][38](司令長官及川古志郎大将)[31][39]が設置されると[12]、その主力部隊に迎えられた[11]。第一海上護衛隊の担当航路は、内地~シンガポール航路と定められた[16]。なお海上護衛長官が指揮する部隊を総称して海上護衛総部隊(護衛総部隊、略語GEB)、海上護衛総司令部・第一海上護衛隊・第二海上護衛隊を総称して海上護衛総司令部部隊(総司令部部隊、略語GKEG)と呼称する[40]

1944年(昭和19年)に入ると、南シナ海航路でも通商破壊が本格化し、それに対応すべく編制・制度が頻繁に変化した。海上護衛総司令部の指揮下、第一海上護衛隊と大鷹型航空母艦ヒ船団ミ船団などの重要な資源船団の護衛を担当することになった[41]。同年10月にフィリピンの地上戦が始まると、東航路は途絶する。西航路の死守と護衛兵力の建制化目的に、12月10日附で第一護衛艦隊へ昇格した[42]。第一護衛艦隊はひきつづき海上護衛総司令部の麾下にあった[38]

編制

1942年4月10日 新編時の編制[43]
1942年7月14日 ミッドウェー海戦後の編制
  • 浮島丸
  • 華山丸、唐山丸、北京丸、長寿山丸、でりい丸
  • 第13駆逐隊:若竹、呉竹、早苗
  • 第22駆逐隊:皐月、水無月、文月、長月
  • 第32駆逐隊:朝顔、芙蓉、刈萱
  • 駆逐艦三日月、水雷艇〈鷺、隼〉
1944年4月1日 戦時編制制度改定後の編制
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制

歴代司令官

  1. 井上保雄 中将:1942年4月10日[44] - 1943年1月14日[45]
  2. 中島寅彦 中将:1943年1月14日[45] - 1944年11月4日[46]
  3. 岸福治 中将:1944年11月4日[46] - 1944年12月10日[47] (第一護衛艦隊に改編後も留任)[31]

歴代参謀長

  1. 山口次平 大佐/少将:1942年4月20日[48] - 1943年1月21日[49]
  2. 堀江義一郎 大佐/少将:1943年1月21日[49] - 1944年5月18日[50]
  3. 堀内茂忠 大佐/少将:1944年5月18日[50] - 1944年12月10日[47] (第一護衛艦隊に改編後も留任)

第一護衛艦隊

日本海軍は海上護衛の中央機関として1943年(昭和18年)11月15日に海上護衛総司令部(略語、GEB)を新編[14][39]、1944年(昭和19年)4月1日には特設護衛船団司令部を設置した[51][52]。しかし司令部・艦艇とも臨時編成のため、建制の護衛戦隊を求める声があがった[52]。これにこたえるように香取型練習巡洋艦2隻(香椎鹿島)と秋月型駆逐艦春月、海防艦多数をもって第101戦隊(昭和19年11月15日新編、旗艦香椎、海防艦6隻)、第102戦隊(昭和20年1月1日新編、旗艦鹿島、海防艦6隻)、第103戦隊(昭和20年1月20日新編、旗艦春月、海防艦6隻)が編成された[52][53]。これら新編の対潜部隊が所属したのが、第一護衛艦隊である[52]

シンガポール方面と日本本土の航路護衛を担当していた第一海上護衛隊だが、護衛兵力は各部隊から寄せ集められた臨時編成だったため、兵力の建制化が求められていた[42]大本営海軍部(軍令部)も海上護衛総司令部の意見を認め、1944年(昭和19年)12月10日付で第一海上護衛隊を第一護衛艦隊に昇格させた[42][54]。司令長官には岸福治中将(海兵40期)[31]が任命された[32]。 艦隊への格上げにともない、水上兵力と共に航空兵力の増強もおこなわれた[55]。第901海軍航空隊(当時、海上護衛総司令部附属)に第953海軍航空隊(高雄警備府所属)と第954海軍航空隊(第三南遣艦隊所属)と第254海軍航空隊(海南警備府所属)を統合、第936海軍航空隊(当時、第一南遣艦隊所属)に第933海軍航空隊(第三十一戦隊所属)を統合する[55]。昭和20年1月1日附で戦時編制の改定をおこない、第901海軍航空隊と第936海軍航空隊は第一護衛艦隊に編入された[55][56]。 増強された第一護衛艦隊はひきつづき海上護衛総司令部に所属し[30][38]ヒ船団に代表されるシンガポールを終点とする南方航路の死守を目指した[42]。この措置と護衛戦隊の増設により、特設護衛船団司令部は解隊されていった[42]

しかし、1945年(昭和20年)1月上旬よりアメリカ機動部隊が仏印沿岸に進出し、第101戦隊(第一護衛艦隊所属)は護衛中のヒ86船団と共に壊滅した[57][58]。その後、南号作戦[59](1月25日~3月9日終結、3月16日中止)が発動されて第一護衛艦隊は主力として参加したが[60][61]、参加船団数15・加入船舶のべ45隻・護衛艦艇のべ50隻のうち、船舶20隻と護衛艦艇4隻を喪失した[62]。この事態に、海上護衛総司令部は南シナ海航路を断念して重点を日本-満州にうつすことになり、大本営も同意した[62]。代わって、台湾・上海を終点とする東シナ海航路の死守を画策したが、これも、沖縄戦に備えたアメリカ機動部隊の事前空襲のために不可能となった。以後は東シナ海横断航路ではなく、上海-青島-木浦・馬山・済州島下関の迂回ルートを取らざるを得なくなった。

1945年(昭和20年)3月、日本軍は連合軍の沖縄島進攻を予想し、南西方面の海上護衛を担当していた第一海上護衛隊を天号作戦に投入する気運が高まっていた[63]。沖縄戦突入後の4月10日[64]、大本営海軍部は対馬海峡方面部隊として第七艦隊[65][66]〔第十八戦隊(常磐、高栄丸、永城丸)[63]、海防艦4隻(102号、104号、106号、150号)、下関防備隊、第33掃海隊〕を新編した[67][68]。 第七艦隊司令長官、幕僚は第一護衛艦隊兼務であったため、岸福治中将(第一護衛艦隊司令長官)[31]の肩書は第七艦隊司令長官兼務第一護衛艦隊司令長官となった[63][68]。第七艦隊は佐世保方面の陸海軍防備部隊や守備隊を指揮下に置き、7月10日には第103戦隊が第一護衛艦隊から第七艦隊に編入された[63][56]

第七艦隊の新編と同日(4月10日)、津軽海峡と宗谷海峡の防備・護衛強化のため第104戦隊[65](司令官渡辺清七少将、海防艦6隻、宗谷防備隊)が編成され[69]、大湊警備府部隊に編入された[70][68]。 5月5日、第105戦隊[71](司令官松山光治少将、駆逐艦、海防艦6隻)が編成され[72]、舞鶴鎮守府部隊に編入された[70][73]。7月10日、第105戦隊は第一護衛艦隊に編入された[70][56]

4月からはB-29による日本本土港湾への機雷投下(飢餓作戦)が始まり、下関港をはじめ全国の港湾が封鎖された[56]。護衛部隊・船舶とも、多数の損傷艦を出した(飢餓作戦[74]。4月14日には第一護衛艦隊主力が駐留する済州島泊地への潜水艦攻撃が実施され、潜水艦ティランテにより貨物船寿山丸と海防艦2隻(能美、第31号)を撃沈された[75]。6月末から日号作戦に従事した[76][77]。 最終的には、舞鶴新潟酒田秋田函館小樽を結ぶ日本海沿岸航路と、舞鶴・新潟-元山羅津・雄基(現先鋒)間を結ぶ日本海横断航路を確保しつつ終戦を迎えた。なお、ソ連対日参戦に際し、隷下海防艦の一部が終戦による停戦命令に反して朝鮮・樺太に入港し、邦人救出を敢行している[78]

編制

1944年12月10日 改編時の編制
1945年3月1日 菊水作戦直前の編制
  • 第101戦隊:対馬、大東、鵜来、第23、27、51号海防艦
  • 第102戦隊:鹿島屋代御蔵、第2、33、34、35号海防艦
  • 第103戦隊:春月昭南久米、第18、25、60、67号海防艦
  • 第8護衛船団司令部
  • 第901海軍航空隊(5月15日、海上護衛総司令部部隊附属となる)[56]
  • 第936海軍航空隊(その後、第十三航空艦隊に編入)[56]
  • 附属:海鷹、春風
    • 第1、11、12海防隊
    • 第31海防隊:沖縄、第63、207号海防艦
    • 粟国稲木、宇久、羽節、竹生崎戸
    • 第9、15、20、22、26、29、40、41、53、55、57、69、72、76、81、82、84、112、138、144、150、205号海防艦
    • 第17号掃海艇、第38号哨戒艇
    • 第931海軍航空隊
1945年6月1日時点の編制
  • 第102戦隊(7月5日解隊、第2海防隊に再編)[56]:鹿島、屋代、干珠、第2、29、34、41、81号海防艦
  • 第103戦隊(7月10日、第七艦隊に編入)[56]:春月、隠岐三宅宇久、羽節、金輪、第59、60、67、192、213号海防艦
  • 附属:第1、11、12、21、22、31海防隊
    • 第17、39、41号掃海艇
    • 第31駆潜隊、第19、20、21、26、60号駆潜艇
  • 7月10日より所属の第105戦隊:駆逐艦響、海防艦6隻

歴代司令長官

  1. 岸福治 中将:1944年12月10日[47] - 1945年4月10日[79]
  2. (兼)岸福治 中将:1945年4月10日[79] - 1945年7月10日[80] (本職:第七艦隊司令長官)
  3. (兼)田結穣 中将:1945年7月10日[80] - 1945年8月25日[81] (本職:舞鶴鎮守府司令長官)

歴代参謀長

  1. 堀内茂忠 少将:1944年12月10日[47] - 1945年1月1日[82]
  2. 杉浦矩郎 大佐:1945年1月1日[82] - 1945年4月1日[83]
  3. 後藤光太郎 少将:1945年4月1日[83] - 1945年4月10日[79]
  4. (兼)後藤光太郎 少将:1945年4月10日[79] - 1945年7月10日[80] (本職:第七艦隊参謀長)
  5. (兼)鳥越新一 少将:1945年7月10日[80] - 1945年8月25日[81] (本職:舞鶴鎮守府参謀長)

第二海上護衛隊

1942年(昭和17年)4月10日、日本海軍は大海令第十七号をもって第四艦隊司令長官井上成美中将に対し、海上交通保護の実施を命じた[5][36]。続いて軍令部総長は、同日付の大海指第八十二号をもって、第二海上護衛隊の任務を「本邦沿岸(北緯29度以北)第四保護海域間航路及第四保護海域内航路ノ船団護衛、第四保護海域内船舶行動管制ノ統括」と指示した[36]。 すなわち第二海上護衛隊[33]横須賀トラック環礁パラオ諸島間の東西2航路の防衛を任務として第四艦隊(南洋部隊)隷下に編成された(略語、2KEg[7][84]。第二海上護衛隊の指揮官は、第四根拠地隊司令官茂泉慎一中将(トラック所在、略語4Bg)が兼務する(司令部職員も同等)[7][36]。 編制当時の交通保護担任区域(第四保護海域)は、小笠原諸島を経由してマリアナ諸島で東西に分岐し、東航路はトラックを終点とし、西航路はパラオを終点としていた[36]。北端は横須賀(本州)、南端はニューギニア島およびラバウルニューブリテン島)であった[85][86]。 なお東航路の延長線にはカロリン諸島マーシャル諸島ギルバート諸島ビスマーク諸島ソロモン諸島があり、西航路の延長線上には西ニューギニアスンダ列島ミンダナオ島が存在していた[86][87]

長大なシーレーンを担当するにもかかわらず、当初は運航統制班と特設艦艇3隻(能代丸〈最大速力13ノット〉、長運丸〈最大速力11ノット〉、金城山丸〈最大速力約14ノット〉)からなる1個戦隊しか充当されなかった[5][36]。このため、大本営海軍部は「一、武装船舶および13ノット以上の船舶は原則として単独航行させる。 二、航路全体の護衛は不可能なので、護衛は機会的・局地的に限定する。」という指示を与えた[85]。3隻の護衛は、おもにサイパン ― トラック ― ラバウル間に重点を置いて実施された[86][88]。 創設から1ヶ月もたたない5月4日、トラック北西方面において特設巡洋艦金城山丸が米海軍潜水艦に撃沈される[86][89]。第二海上護衛隊の戦力は、特設巡洋艦2隻のみとなる[86]。そこで第四艦隊(南洋部隊)隷下の第六水雷戦隊(軽巡洋艦夕張、第29駆逐隊、第30駆逐隊)が護衛に協力し、さらに6月中旬には第四艦隊に多数の駆潜艇が配備される[90]。 7月10日には、内南洋平定を終えて遊兵化していたを第六水雷戦隊を解隊して所属艦艇を第二海上護衛隊に編入し[91]、ようやく対潜能力を備えた船団護衛部隊として一応完成した[92][93]。8月5日には能代丸が除かれ、第一海上護衛隊より特設巡洋艦浮島丸を二海護に編入した[93]。担当海域の広さに対して護衛戦力は不足しており、各鎮守府や連合艦隊の艦艇も臨時に内南洋部隊の指揮下に入り、護衛作戦に従事している[94]

ソロモン諸島の消耗戦が長期化して前線の駆逐艦が不足すると、第二海上護衛隊所属の神風型駆逐艦睦月型駆逐艦もソロモンに引き抜かれ、順次、鴻型水雷艇や新型海防艦に置き換えられた[95][96][97]。 1943年(昭和18年)11月15日に海上護衛総司令部が設立されると(既述)[39]、第二海上護衛隊も麾下に入った[40]。第二海上護衛隊の担当航路は、トラック航路・トラック泊地~パラオ間と定められた[16]

1944年(昭和19年)2月17日にトラック環礁は大空襲を受けて基地機能が失われたため[98]、航路の終点はサイパン島まで後退した(3月1日の大海指第340号により、トラック~パラオ航路を、サイパン~パラオ航路に改定)[40][99]。また従来の第二海上護衛隊司令官はトラック泊地を拠点とする第四根拠地隊司令官との兼任だったが、この改定により在サイパンの第五根拠地隊司令官が二海護司令官を兼任することになった[99]

3月4日、日本軍は第四艦隊と第14航空艦隊をもって中部太平洋方面艦隊[100][101](司令長官南雲忠一中将)[31]を新編(艦隊区分においては中部太平洋方面部隊)[102]マリアナ諸島の強化を企図した。 サイパン島航路は絶対国防圏強化のための重要航路とされ、第二海上護衛隊にくわえて連合艦隊の増援を得て松輸送[101][103]の名の下で護衛および輸送作戦が行われた[104][105]。輸送作戦はおおむね成功したが(護衛艦のべ64隻、加入船舶のべ100隻、損害3隻)、松輸送後におこなわれた第3530船団が大損害を受けるなど、被害を完全に食い止めることはできなかった[105]。 6月にはサイパン島上陸に向けたアメリカ機動部隊による航空攻撃も加わり、担当航路は途絶した[11]。第二海上護衛隊司令官の辻村武久少将はサイパン島の地上戦で戦死し、同島は7月6日に陥落した[106][107]。7月18日付でサイパン島守備隊玉砕が公表され、中部太平洋方面艦隊[100]と共に第二海上護衛隊も解隊された[20][106]

編制

1942年4月10日 新編時の編制[43]
1942年7月14日 改編時の編制
1944年4月1日 戦時編制制度改定後の編制
1944年7月18日 最終時の編制
  • 隠岐、福江、平戸、天草、御蔵、能美
  • 鵯、鴻
  • 長運丸

歴代司令官

  1. 茂泉慎一 少将:1942年4月10日 - ※本職は第四根拠地隊(カロリン諸島防衛)司令官
  2. 武田盛治 少将:1942年6月15日 - ※本職は第四根拠地隊司令官
  3. 若林清作 少将:1943年7月15日 -
  4. 有馬馨 少将:1944年2月19日 - ※本職は第四根拠地隊司令官
  5. 辻村武久 少将:1944年3月1日 - 1944年7月18日解隊(1944年7月8日サイパン島で戦死) ※本職は第五根拠地隊(マリアナ諸島防衛)司令官

第三海上護衛隊

1944年(昭和19年)5月20日[21]東京湾大阪湾紀伊水道)航路の船団護衛を担当するために新編されたのが第三海上護衛隊である[23][108]。 伊勢湾部隊(指揮官平塚四郎大佐/伊勢防備隊司令:成生、特設掃海艇1隻、特駆7隻、駆特3隻、特敷高千穂丸、曳船1隻)、熊野灘部隊(指揮官大野周大佐/駒橋艦長:駒橋、特掃4隻、駆特3隻、哨戒監視艇1隻)、紀州部隊(指揮官鬼塚武二大佐/九〇三空串本派遣隊指揮官:特駆2隻、特掃5隻、駆特1隻、掃特2隻、海防艦50号、掃海艇27号、魚雷艇6隻)、航空部隊(九〇三空串本、浜島、大井、小松島各派遣隊)を指揮下兵力に置く[23]

東京湾~紀伊水道は本州太平洋側における海上輸送の大動脈であり、大戦序盤の頃から散発的に潜水艦被害が出ていた航路であった(昭和17年5月の水上機母艦瑞穂沈没など)[109]。従来は横須賀鎮守府大阪警備府が管轄していたが、相互連絡の不備などの不都合が続出した。これを解消するため、横須賀鎮守府・大阪警備府・舞鶴鎮守府部隊から兵力を抽出する形で設置された部隊であった(横須賀鎮守府司令長官の麾下に編入)[108]。だが護衛艦艇が極端に少なく、串本海軍航空隊の編入も見送られたため航空支援も得られなかった。大規模に対潜機雷が敷設されていた三陸沖航路のような厳重な防御も困難であった。 被害が続出する一方、満足な成果は得られなかった。同年11月29日には大和型戦艦改造空母信濃が紀伊半島潮岬沖で米潜水艦(アーチャーフィッシュ)に撃沈され、三海護の所属部隊は掃蕩をおこなったが成果はなかった[24]

1945年(昭和20年)2月下旬(16日、17日、25日)、米軍機動部隊の関東地方襲来により、本州太平洋沿岸を行動中の艦艇(監視艇隊を含む)は大きな被害を受けた[110]。4月10日、第三海上護衛隊は本土決戦において伊勢湾の水際防御を担当する第四特攻戦隊(横須賀鎮守府部隊)に改編された[111][25]。4月15日に新編された時の第四特攻戦隊兵力は、第13突撃隊、伊勢防備隊、測量艦駒橋、第26掃海隊、海防艦3隻、第112駆潜隊、駆潜艇3隻であった[25]

編制

1944年5月20日 新編時の編制

  • 潜水母艦駒橋 (特攻戦隊に転籍後、1945年7月28日戦没)
  • 敷設艇成生 (1945年2月16日戦没)
  • 第14号駆潜艇 (特攻戦隊に転籍後、1945年7月28日戦没)
  • 第46号哨戒艇 (1944年11月10日戦没)
  • 第26掃海隊 (特攻戦隊に転籍後、1945年7月31日解隊。残存艇は伊勢防備隊に編入)
    • 特設掃海艇第1京仁丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
    • 特設掃海艇第2京仁丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
    • 特設掃海艇第18播州丸 (特攻戦隊に転籍後、1945年7月28日戦没)
    • 特設掃海艇第10昭和丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
  • 伊勢防備隊
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制
  • 第4号海防艦 (特攻戦隊に転籍後、1945年7月28日戦没)
  • 駒橋、成生、第14号駆潜艇
  • 第112駆潜隊 (特攻戦隊に転籍後、1945年7月15日解隊。所属艇は伊勢防備隊に編入)
    • 特設駆潜艇第8日東丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
    • 特設駆潜艇第9日東丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
    • 特設駆潜艇高津丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
    • 特設駆潜艇第2高津丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
    • 特設駆潜艇隼丸 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
  • 第26掃海隊、伊勢防備隊
1945年3月1日 菊水作戦直前の編制
  • 駒橋、第4号海防艦、第14号駆潜艇
  • 第50号海防艦 (特攻戦隊に転籍後、終戦時残存)
  • 第26掃海隊、第112駆潜隊、伊勢防備隊

歴代司令官

  1. 中邑元司 少将:1944年5月20日[23] - 1945年4月15日(第四特攻戦隊に改編後も留任)

第四海上護衛隊

1944年(昭和19年)4月10日、佐世保鹿児島沖縄間航路の船団護衛を担当する目的で、従来の佐世保防備戦隊を解隊・改編する形で発足した[26][112]。同時に沖縄方面根拠地隊も新編され、新葉亭造少将が第四海上護衛隊司令官と沖縄方面根拠地隊司令官を兼務した[26][27]。司令部は奄美大島に置かれ、佐世保鎮守府部隊に編入された[26][112]。 当時、沖縄が戦場となる恐れが極めて高まってきていたが、既存の第二海上護衛隊が担当する南方航路は沖縄を通らず台湾を経由していたため、沖縄への新たな輸送ルートを設置する必要があったためである。第四海上護衛隊の司令部は沖縄を防衛する「沖縄方面根拠地隊」司令部を兼任し(上述)、沖縄への物資輸送と住民の本土疎開を推進した。戦力は微々たるもので、対馬丸をはじめとする商船の喪失は防げなかった。 1945年(昭和20年)2月25日、軍令部総長は戦時編制改訂を奏上する[29]。沖縄方面根拠地隊を地上戦に専念させるために司令部の兼任は解除され、大田少将は2月25日附で兼務を解かれた(沖縄方面根拠地隊司令官専任)[113]。新任の第四海上護衛隊司令官には、駒沢克己少将が任命された[113]

沖縄上陸に向けて連合軍の機動部隊が南西諸島方面に進出し、3月下旬から九州地区へ空襲を開始すると、「友鶴」など部隊の主力艦艇を次々に失う[114]。制空権・制海権とも完全に失い、第一号型輸送艦第百一号型輸送艦や機帆船による特攻的輸送を細々と実施したものの、沖縄航路は途絶した[114][115]。海上交通保護が不可能となった第四海上護衛隊は、本土決戦に備えて南九州防衛を任務とする第五特攻戦隊(佐世保鎮守府部隊)へ編入されることになり、5月10日付で改編消滅した[25]。しかし、すでに所属艦艇の大半が失われており、特攻戦隊に委譲できたのは駆潜艇2隻に過ぎなかった[25]。第五特攻戦隊の兵力は、第32突撃隊、第33突撃隊、駆潜艇2隻であった[25]

編制

1944年4月10日 新編時の編制[116]
  • 沖縄海軍航空隊 (1944年12月15日、第九五一海軍航空隊に編入)
  • 水雷艇真鶴 (1945年3月1日戦没)
  • 水雷艇友鶴 (1945年3月24日戦没)
  • 第15号掃海艇 (1945年3月5日戦没)
  • 特設砲艦富津丸 (1944年10月22日戦没)
  • 沖縄方面根拠地隊 (1945年3月5日、佐世保鎮守府部隊に編入)
    • 敷設艇 (1945年3月1日戦没)
    • 敷設艇 (1944年4月27日戦没)
    • 大島防備隊
    • 第43掃海隊 (1945年3月5日解隊、残存艇は大島防備隊に編入)
      • 特設掃海艇第7博多丸 (1944年10月10日戦没)
      • 特設掃海艇姫島丸 (大島防備隊に転籍後、終戦時まで残存)
      • 特設掃海艇宝永丸 (1944年9月29日戦没)
      • 特設掃海艇第8長運丸 (大島防備隊に転籍後、終戦時まで残存)
  • 第49号駆潜艇 (特攻戦隊に転籍後、終戦時まで残存)
  • 第58号駆潜艇 (特攻戦隊に転籍後、1945年5月22日戦没)
1944年8月15日 マリアナ沖海戦後の編制
  • 沖縄海軍航空隊
  • 第30号海防艦 (改編に伴い大阪警備府部隊に転籍後、1945年7月28日戦没)
  • 友鶴、真鶴、第15号掃海艇、第49、58号駆潜艇
  • 富津丸
  • 沖縄方面根拠地隊
    • 大島防備隊
    • 第43掃海隊
1945年3月1日 菊水作戦直前の編制
  • 第30号海防艦
  • 友鶴、真鶴、第15号掃海艇、第49、58号駆潜艇
  • 沖縄方面根拠地隊
    • 大島防備隊
    • 第43掃海隊
      • 姫島丸、宝永丸(書類上在籍)、第8長運丸
1945年5月10日 最終時の編制
  • 第30号海防艦
  • 第49、58号駆潜艇

歴代司令官

  1. 新葉亭造 少将:1944年4月10日- ※本職は沖縄方面根拠地隊司令官
  2. 大田実 少将:1944年9月30日- 1945年2月25日[113]※本職は沖縄方面根拠地隊司令官
  3. 駒沢克己 少将:1945年2月25日[113]- 1945年5月10日(第五特攻戦隊に改編後も留任)

脚注

  1. ^ 戦史叢書102巻、418-419頁「付録第3、軍隊符号等(隊号・略字等)」「2.海軍関係」
  2. ^ a b 戦史叢書38巻、511頁「第二段作戦とは」
  3. ^ 戦史叢書80巻、294-295頁「一 第二段作戦の内容の変化」
  4. ^ 戦史叢書80巻、296-299頁「第二段作戦計画」
  5. ^ a b c d e f g h 戦史叢書80巻、482-484頁「海上護衛隊の新設」
  6. ^ 戦史叢書38巻、519頁「四月十日付戦時編制の改訂」
  7. ^ a b c d e 戦史叢書38巻、520頁「五、海上護衛隊の編制」
  8. ^ a b c d 戦史叢書85巻、101-102頁「戦時編制の改定と内戦部隊」
  9. ^ 戦史叢書80巻、225頁(特設海上護衛隊)
  10. ^ a b 戦史叢書85巻、112頁「東シナ海方面対潜作戦」
  11. ^ a b c d e 戦史叢書85巻、203頁「海上護衛態勢強化」
  12. ^ a b c 日本海防艦戦史、38-40頁「海防艦、第一線へ」
  13. ^ 戦史叢書85巻、212-213頁「海上護衛強化策」
  14. ^ a b c 戦史叢書102巻、530-531頁「海上護衛総司令部」
  15. ^ 戦史叢書71巻、100-102頁「海上護衛総司令部の設置」
  16. ^ a b c 戦史叢書85巻、206-207頁「十一月の状況/海上護衛総司令部創設」
  17. ^ 戦史叢書85巻、202-203頁「マリアナの大勢決す」
  18. ^ 戦史叢書102巻、241頁「昭和19年(1944年)7月7日 サイパン守備隊玉砕」
  19. ^ a b 日本海防艦戦史、58-60頁「組織の改善(昭和十九年四~八月)」
  20. ^ a b 戦史叢書102巻、243-244頁「昭和19年(1944年)7月18日」
  21. ^ a b 戦史叢書102巻、232-233頁「昭和19年(1944年)5月20日」
  22. ^ 戦史叢書71巻、105頁(三海護)
  23. ^ a b c d e 戦史叢書85巻、279-280頁「本土東岸、南岸方面/概説」
  24. ^ a b 戦史叢書85巻、280-281頁「(三海護)対潜攻撃」
  25. ^ a b c d e f g 戦史叢書93巻、380-381頁「鎮守府所属特攻戦隊の編成」
  26. ^ a b c d 戦史叢書85巻、217頁「護衛及び防備強化の措置」
  27. ^ a b c 戦史叢書102巻、226頁「昭和19年(1944年)4月10日」
  28. ^ 戦史叢書71巻、104頁(四海護)
  29. ^ a b 戦史叢書102巻、285頁「昭和20年(1945年)2月24日」
  30. ^ a b 戦史叢書102巻、531頁「第1護衛艦隊」
  31. ^ a b c d e f g 戦史叢書102巻、457-459頁「付録第6 陸海軍首脳者在職推移表(昭和6年9月~20年12月)」「2 海軍首脳者」「(4)聯合艦隊、その他の艦隊」
  32. ^ a b 日本海防艦戦史、129-130頁「第一護衛隊、第一護衛艦隊に昇格」
  33. ^ a b c 戦史叢書102巻、115頁「昭和17年(1942年)4月10日」
  34. ^ 戦史叢書102巻、530頁「南西方面艦隊」
  35. ^ a b c 戦史叢書80巻、375-377頁「南西方面の作戦指導と経過概要/第二段作戦方針」
  36. ^ a b c d e f 戦史叢書38巻、599頁「第二海上護衛隊の誕生」
  37. ^ 戦史叢書80巻、484-485頁「第二段作戦初期の海上護衛戦」
  38. ^ a b c 戦史叢書102巻、524-526頁「付録第7 陸海軍の組織・編制関係概見表(昭和12年~20年)」「(7)大東亜戦争間における艦隊の新設・解隊」
  39. ^ a b c 戦史叢書102巻、202頁「昭和18年(1943年)11月15日」
  40. ^ a b c 戦史叢書62巻、556-557頁「海上護衛隊総司令部の発足」
  41. ^ 日本海防艦戦史、68-71頁「護送空母と海防艦」
  42. ^ a b c d e f 戦史叢書93巻、169-170頁「第一護衛艦隊の編成」
  43. ^ a b 戦史叢書38巻、520-531頁「聨合艦隊戦時編制表(昭和一七.四.一〇付)」
  44. ^ 昭和17年4月10日付 海軍辞令公報(部内限)第841号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085100 
  45. ^ a b 昭和18年1月16日付 海軍辞令公報(部内限)第1032号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089100 
  46. ^ a b 昭和19年11月8日付 秘海軍辞令公報 甲 第1638号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101800 
  47. ^ a b c d 昭和19年12月13日付 秘海軍辞令公報 甲 第1667号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102200 
  48. ^ 昭和17年4月20日付 海軍辞令公報(部内限)第845号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085200 
  49. ^ a b 昭和18年1月25日付 海軍辞令公報(部内限)第1040号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089500 
  50. ^ a b 昭和19年5月18日付 海軍辞令公報(部内限)第1474号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200 
  51. ^ 戦史叢書102巻、224頁「昭和19年(1944年)4月1日」
  52. ^ a b c d 戦史叢書93巻、168-169頁「海上護衛戦隊(第百一、第百二、第百三戦隊)の編成」
  53. ^ 日本海防艦戦史、127-129頁「一〇一戦隊らの設立」
  54. ^ 戦史叢書85巻、292-293頁「十二月の対潜戦」
  55. ^ a b c 戦史叢書93巻、171-172頁「第一護衛艦隊所属航空隊の改編」
  56. ^ a b c d e f g h 戦史叢書93巻、400-401頁「海上護衛総司令部部隊」
  57. ^ 日本海防艦戦史、142-145頁
  58. ^ 戦史叢書93巻、205-206頁「ヒ八六船団の潰滅」
  59. ^ 戦史叢書102巻、404頁「南号作戦」
  60. ^ 日本海防艦戦史、162-164頁「今のうちに油を(昭和二十年二~三月)」
  61. ^ 戦史叢書93巻、206-210頁「軍令部総長の指示」
  62. ^ a b 戦史叢書93巻、210頁「作戦の実施経過」
  63. ^ a b c d 戦史叢書93巻、398-400頁「第七艦隊の編成」
  64. ^ 日本海防艦戦史、194-196頁「第七艦隊の設立(四月)」
  65. ^ a b 戦史叢書102巻、296頁「昭和20年(1945年)4月10日」
  66. ^ 戦史叢書102巻、528頁「第7艦隊」
  67. ^ 戦史叢書85巻、427-428頁「第七艦隊編成」
  68. ^ a b c 戦史叢書85巻、398-399頁「海上交通保護」
  69. ^ 日本海防艦戦史、223-224頁「第一〇四戦隊の設立」
  70. ^ a b c 戦史叢書93巻、400頁「第百四、第百五戦隊の編成」
  71. ^ 戦史叢書102巻、301-302頁「昭和20年(1945年)5月5日」
  72. ^ 日本海防艦戦史、225-226頁「第一〇五戦隊の設置」
  73. ^ 戦史叢書85巻、448頁「五月の状況」
  74. ^ 日本海防艦戦史、204-210頁「機雷による損害、実に一九隻」
  75. ^ 日本海防艦戦史、196-199頁「泊地を奇襲された第1海防隊(四月)」
  76. ^ 戦史叢書93巻、405-410頁「日号作戦」
  77. ^ 戦史叢書85巻、450-453頁「日号作戦」
  78. ^ 日本海防艦戦史、262-263頁「55号、樺太から邦人を引揚げ」
  79. ^ a b c d 昭和20年4月23日付 秘海軍辞令公報 甲 第1780号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104400 
  80. ^ a b c d 昭和20年7月19日付 秘海軍辞令公報 甲 第1861号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072106200 
  81. ^ a b 昭和20年9月13日付 海軍辞令公報 甲 第1911号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072107400 
  82. ^ a b 昭和20年1月7日付 秘海軍辞令公報 甲 第1686号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800 
  83. ^ a b 昭和20年4月7日付 秘海軍辞令公報 甲 第1766号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104200 
  84. ^ 戦史叢書38巻、547-549頁「第六兵力部署(甲)及び(乙)〔抜粋〕」
  85. ^ a b 戦史叢書38巻、599頁「海上護衛の方針」
  86. ^ a b c d e 戦史叢書38巻、599-600頁「海上護衛の経過」
  87. ^ 戦史叢書38巻、600頁(挿図第37)「機密呉鎮命令作第十二号による海上交通保護担任区域図(昭和一八年二月十七日付)」
  88. ^ 戦史叢書38巻、601頁「1 直接護衛船舶数」/「2 担任海域の行動船舶」
  89. ^ 戦史叢書38巻、589頁「浮遊機雷捜索と敵潜水艦による被害」
  90. ^ 戦史叢書62巻、56-58頁「直接護衛の実施」
  91. ^ 戦史叢書102巻、129頁「昭和17年(1942年)7月10日」
  92. ^ 戦史叢書62巻、43-44頁「第六水雷戦隊のSN作戦における活躍と同隊の解隊」
  93. ^ a b 戦史叢書62巻、98頁「第二海上護衛隊の編制とその配備」
  94. ^ 戦史叢書62巻、193-194頁「護衛の実施」
  95. ^ 戦史叢書62巻、363頁「第二海上護衛隊の兵力」
  96. ^ 戦史叢書62巻、433頁「第二海上護衛隊の活躍」
  97. ^ 戦史叢書62巻、562頁「第二海上護衛隊の護衛」
  98. ^ 戦史叢書85巻、216頁「昭和19年(1944年)2月17日」
  99. ^ a b 戦史叢書71巻、350頁「第二海上護衛隊の担当航路の変更」
  100. ^ a b 戦史叢書102巻、530頁「中部太平洋方面艦隊」
  101. ^ a b 戦史叢書102巻、219頁「昭和19年(1944年)3月4日」
  102. ^ 戦史叢書102巻、532頁「(ハ)艦隊区分による主要部隊/中部太平洋方面部隊」
  103. ^ 戦史叢書102巻、406頁「松輸送」
  104. ^ 日本海防艦戦史、41-44頁「松輸送の海防艦」
  105. ^ a b 戦史叢書71巻、385-387頁「松輸送の実施」
  106. ^ a b 戦史叢書45巻、86-89頁「サイパン島の最後と中部太平洋方面艦隊の解隊」
  107. ^ 戦史叢書102巻、241頁「昭和19年(1944年)7月6日」
  108. ^ a b 戦史叢書71巻、357頁「第三海上護衛隊」
  109. ^ 戦史叢書85巻、106-109頁「本州南岸の護衛、対潜作戦」
  110. ^ 戦史叢書85巻、281-283頁「米機動部隊関東方面来襲」
  111. ^ 戦史叢書85巻、404-405頁「護衛分担」
  112. ^ a b 戦史叢書71巻、356頁「第四海上護衛隊の編成」
  113. ^ a b c d 昭和20年3月2日(発令2月25日付)海軍辞令公報(甲)第1735号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103600 
  114. ^ a b 戦史叢書85巻、415-416頁「船団輸送護衛」
  115. ^ 戦史叢書85巻、415-418頁「輸送艦による輸送/離島への輸送」
  116. ^ 戦史叢書71巻、356-537頁の兵力解説による

参考文献

  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<6> ―第三段作戦後期―』 第45巻、朝雲新聞社、1970年4月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<5> ―第三段作戦中期―』 第71巻、朝雲新聞社、1974年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<2> ―昭和17年6月まで―』 第80巻、朝雲新聞社、1975年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』 第93巻、朝雲新聞社、1976年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 

関連項目