今野由梨
今野 由梨(こんの ゆり、1936年〈昭和11年〉6月2日-)は、日本の実業家。ダイヤル・サービス株式会社創業者、代表取締役。公益財団法人日本ニュービジネス協議会連合会顧問、東京商工会議所特別顧問、一般社団法人日本介護事業連合会副会長(理事)、一般財団法人全国SNSカウンセリング協議会常務理事。 人物就職面接で「定年まで働いて社長を目指します!」とアピールしたことが災いして就職失敗。 1964年、今野はニューヨーク万博の日本館コンパニオン/広報担当者として渡米した。この年は日本人の海外渡航が自由化された年。円ドル交換レートは1ドル360円。日本からの往復航空運賃だけでも40万円以上、現在に置き換えると400万円に匹敵する時代だった。今野はニューヨークを皮切りにヨーロッパ各国を回って女性創業社長たちとの交流や企業訪問等を行い、来るべき起業の道を模索した。その中でアメリカ、フランス、ドイツ等で出会った電話秘書サービス(TAS:Telephone Answering Service:単なる電話番ではなく、秘書機能を付加したサービス)に注目した。 今野は帰国後33歳の時にダイヤル・サービス株式会社を創業(1969年)し、日本初の24時間年中無休の電話秘書サービスを開始した。今野は電話というインフラを双方向メディアと捉え、専門家が顧客の個別ニーズに応えるというリアルタイムの情報価値を加えたサービスを創造した。今野の創業時(1969年)時点では、法規制のため有料情報サービスの情報料金を電話料金と一緒に回収することはできなかった。 情報サービスに対しての直接課金ができなかった20年間の間、ダイヤル・サービス株式会社はスポンサー企業を求め、安田生命保険(現・明治安田生命)や西武百貨店(1972年)などの大手スポンサーとの契約に成功。その後は味の素、東芝商事などの大企業をスポンサーとして成長を続けた。 1975年には森永乳業がスポンサーとなって「エンゼル110番」をスタートさせた。 1975年5月にはトヨタ自動車をスポンサーとした「子ども110番」をスタート。子供からのお悩み電話相談に応えるという、前代未聞のサービスだった。 1981年4月には、野村證券をスポンサーとした「熟年110番」をスタート。 1987年12月には、NECをスポンサーとした視覚・聴覚障害者のための「NECまごころコミュニケーション」がスタート。視覚障害者に届くさまざまな情報をファクスで送ってもらい、それを電話で読む代読サービスや、聴覚障害者には、本人に代わって電話で聞き取った内容を文章にしてファクスする代筆サービスを提供。「ハンディキャップ110番」として、さまざまな障害に対応する情報機器も導入し、それらの機器を障害者自身が操作して仕事をこなした。 1989年の法改正後、NTT東日本・西日本により情報料代理徴収サービス(ダイヤルQ2)が始まったが、それまでの20年間、今野は世界で初めてスポンサービジネスモデルによる電話相談サービスを続けた。 ダイヤル・サービスが開始した主な電話相談サービス
今野は創業以来52年間にわたって、電話を使った全く新しい対話型のビジネスモデルを生み出した。また今野は85歳の現在(* 原稿執筆の2021年8月現在)でも、現役の経営者として一線に立っている。今野は本業の傍ら政府の諮問委員や地方自治体の委員などを50以上受任し、2007年に旭日中綬章を受章。 生い立ち三重県桑名市生まれ。松尾家の6人姉妹の次女。 桑名市は1945年7月17日の米軍のB-29 爆撃機による空襲を受け、当時9歳だった由梨は至近距離で爆発した爆弾の衝撃で意識を失ったが奇跡的に助かった。1951年桑名高校普通科に進学。大学進学時には女性が東京の大学を受験することに両親の大反対を受けるが説得し、女子大であった津田塾大学を受験して現役で合格。授業料などの支援を一切しないという両親だったが、三重県の奨学金制度に合格し、桑名高校でただ一人、奨学金をもらえることになった。津田塾大学英文科卒業時の就職活動ではテレビ局やメディア関係、海外拠点のある商社などを狙って応募したが、筆記試験は通過して面接までいっても、そこで全て不合格。「男性にひけをとらない仕事をする自信があります。定年まで頑張ります。社長を目指します」と話すと、人事担当者はあきれ返って苦笑するばかり。女性がお茶くみ以外の仕事をすることは求められない時代だった。 就職活動で失敗した由梨は1964年にニューヨークで開催される世界博覧会での日本館のコンパニオン募集の情報を知って応募。応募者3000人、倍率30倍の難関を突破してコンパニオンに採用された。ニューヨークで世界博覧会日本館でのコンパニオン兼広報担当の仕事をしながら、起業の夢のために全ての物を勉強し、TAS(テレフォン・アンサリング・サービス: 電話秘書サービス)という職種の会社の情報を見つけた。女性経営者の下で、数百人の女性オペレーターが電話回線を通じて電話応対による会員制秘書サービスやカタログショッピング・サービスを提供していた。日本ではまだ電話そのものの普及が進んでいたかった頃でもあり、すべてが未来からの啓示に感じられた。その後ヨーロッパのビジネス事情の勉強のためにドイツに渡り その後、イギリス、フランス、イタリア、スペインなどを回って、電話を使ったコンシェルジェ・サービスの仕事を視察した。 日本に帰国後1969年5月1日、32歳でダイヤル・サービス株式会社を創業した。最初は欧米で知った電話による秘書サービス業。日本初の電話サービス事業であった。オフィスは賃貸の6畳一間に黒電話が2台。今野を含めて女性ばかり7人でスタートした。 創業2年目の1970年には育児ノイローゼで乳児をコインロッカーに遺棄する「コインロッカーベイビー」といった悲惨な事件が相次ぎ、1971年9月1日に、若い母親を救うための電話サービスとして「赤ちゃん110番」の開始を決めた。趣旨に賛同した医師や編集者などが集まり、朝日新聞でも大きな記事として掲載されて話題になり、電話は鳴りやまなかった。そして日本電信電話公社(現NTT)代々木電話局の電話回線がパンクした。これは電話交換機の物理的な容量を超えるアクセスがあった場合に起きるトラブルで、現代に置き換えるとサーバーダウン状態であった。 さらには電話相談に対する課金モデルを提案したことで、当時は認可されなかった「通話料と情報料の二重課金制度」を使ったニュービジネスという大きなハードルに取り組んだ。今野の熱意と社会のニーズに突き動かされた日本電信電話公社(現NTT)の営業局長の遠藤正介が、20年をかけて法改正を果たし、通信料と情報料を一括して徴収し、情報提供事業者にその代金を支払う「ダイヤルQ2」(電話を通じて情報を提供する事業者に代わって,日本電信電話 NTTが利用者からの情報料回収を行なうサービス。正式にはダイヤルキューと呼ぶが、0990で始まる10桁の番号をダイヤルすることから,99(キューキュー)をキューツーと読み替え,ダイヤルキューツーの呼称が定着した。)という爆発的人気ビジネスモデルの元となった。 今野は日本初の電話相談というニュービジネスを起こした女性ベンチャーとして、また生活者視点を持つ民間人有識者として政府に認められ、これまでに約50回にわたり(経済産業省調べ)の政府機関で、政府税制調査会や金融審議会、電気通信審議会、産業構造審議会、教育課程審議会、薬事・食品衛生審議会、水産政策審議会などの審議委員を歴任してきた。 こうした場で得た人脈の中から、ダイヤル・サービス株式会社の社社内勉強会の機会として、1978年、ダイヤル・サービス株式会社創業9年目に「原宿サロン」という勉強会・異業種交流会を始めた。第一回目の講師は審議会で知り合った、上野動物園の初代園長、古賀忠道だった。「原宿サロン」という名前は、当時の本社事務所のあった原宿セントラルアパートで開催していたことに由来する。その後の原宿サロンは、43年間にわたって500回以上の月例会を続けており、経済人、政治家、官僚、学者、芸術家、アスリート、評論家などあらゆる分野のトップランナーが登壇してきた。これまでに、塙義一(日産自動車会長)、三浦雄一郎、生田正治(日本郵政公社総裁)、奥田碩(トヨタ自動車㈱会長)、立石義雄(オムロン㈱代表取締役会長)、北城恪太郎(日本アイ・ビー・エム㈱代表取締役会長)、西村康稔(衆議院議員)、野中ともよ(三洋電機㈱ 代表取締役会長)、出井伸之(ソニー㈱ 最高顧問)、山中伸弥(京都大学教授)などが登壇してきた。 「原宿サロン」は2020年8月以来コロナ対策としてオンライン化の試験運用を開始し、寺島実郎(日本総研理事長)、大山健太郎(アイリスーオーヤマ会長)、南部靖之(パソナグループ代表)、孫泰蔵(ミスルトゥ代表)、自見はなこ参議院議員、塚原光男/千恵子(オリンピック体操金メダリスト夫妻)、坂東眞理子(昭和女子大学総長)、桂由美(ブライダル・ファッションデザイナー)、井沢元彦(歴史小説作家)、野本弘文(東急グループ会長)、大木トオル(音楽家、国際セラピードッグ協会創立者)、橋本五郎(読売新聞東京本社特別編集委員)、福田尚久(日本通信代表取締役社長)、和田秀樹(精神科医、評論家)などとの対談形式でオンライン配信を続けている。 2021年6月現在、今野由梨は情報サービス分野で85歳の現役女性創業経営者として未だにフルタイムで約300人の社員の陣頭指揮を執っている。 ダイヤル・サービス株式会社は2019年に創業50周年を迎え、30種類を超える電話110番のサービスを、政府や自治体、企業をクライアントとして受託している。 略歴
主な受賞歴と活動
主な公職歴
主な地方自治体委員歴
主な民間団体歴
その他の経歴
著書
参考文献
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