今井重幸
今井 重幸(いまい しげゆき、1933年1月4日 - 2014年1月4日[1] )は、日本の現代音楽作曲家、舞台演出家、構成作家。別名にまんじ 敏幸(まんじ としゆき)、島 敏幸(しま としゆき)。 概略純音楽や歌曲の作曲活動だけでなく、映像音楽、劇音楽、舞踊音楽などにも多くの作品を残す一方、まんじ敏幸の別名で舞台・演劇の構成作家や演出を手がけ、劇団を創設した。さらに島敏幸のペンネームで歌曲の作詞をするなど、ジャンルを超えた幅広い芸術活動を精力的に展開してきた。その間、ヨネヤマ・ママコ、三条万里子、土方巽、小松原庸子らを指導し、世に送り出した。また、土方巽や“舞踏(BUTOH)”の命名者としても知られる。 経歴伊福部昭との出会いまで1933年(昭和8年)、東京市(現・東京都)杉並区阿佐谷にて、外交官の今井重夫、ひさの次男として生まれる。のちに父・重夫がアメリカ、サンフランシスコ総領事館の領事になったのを機に、重夫はひさとともにアメリカに渡るが、重夫・ひさ夫妻は「子供たちは日本人だから、日本で教育を受けるべきだ」との教育方針を貫き、今井を含む2人の子供を東京の親戚宅に預けた。今井の妹は両親のサンフランシスコ滞在時代に誕生した。 今井は小学3年時前後から我流で曲作りを始めた。そのきっかけは、1940年(昭和15年)の父・重夫の母(今井の祖母)の逝去にある。重夫は公務のため葬儀に臨むことができず、ひさが代理でサンフランシスコから日本に一時帰国することになった。その際、東京に送った荷物の中に重夫がアメリカで購入したアップライト・ピアノがあった。小学2年生、8歳時の今井は、物珍しさもあって自宅の応接間に据えられたそのピアノを玩具代わりに弾き戯れた。やがて音を鳴らしているうちに、即興で曲を作るようになっていったという。 1945年(昭和20年)、12歳。戦争が激しくなり、父親の実家がある新潟県高田市(現・上越市)西城町に疎開する。新潟県立高田中学校(現・新潟県立高田高等学校)に入学し、柔道部に入部する(この時期の同校には、政府による軍事教育の指針に従って柔道部、剣道部、銃剣術部の3つしかなかったという)。芸術とは無関係な部活動だったが、当時の今井は実年齢よりも大人びた風貌と体躯を持っていたため、「柔道そのものが苦になることはなかった」と述懐している。 1946年(昭和21年)、13歳。独学で本格的に作曲を始める。同年、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『春の祭典』をラジオの進駐軍放送で聴いて衝撃を受ける。同年、旧制東京都立青山中学校(現・東京都立青山高等学校)に転校。週1、2回、同校に非常勤講師として来ていた声楽家の畑中良輔の授業を受け、さらに畑中に個人レッスンを受けるために彼の自宅に通う。2年生のとき、青山中学でクラブ活動が解禁されたのを機に、自ら音楽部を創設する。同部では編曲・指揮のほか、合唱団を組織し、他校の音楽部との合同演奏会を企画するなどの活動を行なう。今井のプロデューサーとしての才能の萌芽がここに見出せる。 その頃、1年先輩でラグビー部に所属していた池野成をピアノ伴奏役に抜擢した。今井と池野との交友はその後58年にも及んだ。また、5年上の小杉太一郎(のちの作曲家)や、同校で演劇部を創設した1年上の小池朝雄(のちの文学座俳優)とも友好を深めた。小池とは青山中学時代にすでに演劇作品の劇音楽で組んでいる。 1947年(昭和22年)、14歳。エドガー・ヴァレーズの『イオニザシオン』(1931年作)を進駐軍放送で聴いたのをきっかけに、さらに創作意欲が高まり、作曲家を志すことを決意する。父・重夫は今井の作曲家志望を黙認したが、母・ひさは「河原乞食の真似事などして」と大反対だったという。 1948年(昭和23年)、15歳。青山中学の恩師・畑中良輔の奨めを受け、東京音楽学校(現東京藝術大学)選科に入学する。青山高校に通いながらの登校だった。同校では石桁眞禮生の指導のもと、和声や対位法など作曲の基礎を学ぶ。また、この頃から総合芸術としての演劇・舞踊に興味を掻き立てられ、ソシエテ・デ・ザール(劇作家の内村直也を中心とし、フランス文学者や劇作家・小説家の顔も持っていた梅田晴夫ほか、鎌倉アカデミアからの流れを持つ若者たちが集まった演劇研究会)に出入りするようになり、演劇と演出の勉強にも励んだ。 1949年(昭和24年)、16歳。『チェロ・ソナタ』を書き上げて、毎日音楽コンクールに応募するが、落選する。これが今井の楽壇デビュー作品にあたる。 1950年(昭和25年)、17歳。『交響詩「狂人の幻影」』をNHK管弦楽コンクールに応募する。またもや落選の憂き目に遭ったが、同作品のスコアを見た伊福部昭が今井に興味を抱いたことから、伊福部の謦咳に接する機会を得た。同年暮れに上演された江口隆哉・宮操子舞踊団の『プロメテの火』を観覧して大きな衝撃と感動を受けた。その舞踊音楽を作曲した伊福部昭はすでに憧れの作曲家であった。その際、2人を引き合わせたのが、今井の終生の友である池野成だった。伊福部の音楽論、創作理念、その人間味、スケールの大きさに心酔した今井は、鋭意決断して伊福部の一門弟となり、池野成、小杉太一郎、松村禎三、三木稔、原田甫らとともに伊福部の映画音楽制作を手伝うようになった。この伊福部と今井の師弟関係は終生変わることなく、2006年(平成18年)の伊福部の逝去まで続き、2月14日、東京・桐ヶ谷斎場で執り行なわれた伊福部の告別式では、松村禎三とともに葬儀委員長を務めた。 音楽家としての基礎を身につけた後、1950年代から本格的な創作活動を開始し、以来1990年代中期に至るまで、数々のテレビ向け音楽作品、演劇・舞踊向け音楽作品、純音楽作品、歌曲作品を送り出す一方、演劇(「まんじ敏幸」名での構成作家、演出家)やフラメンコ など、幅広い分野で創作活動を展開、数多くの業績を残した。今井重幸(まんじ敏幸)の名は、旧来の楽壇主流派から見れば一種アヴァンギャルドな存在に映ったものと推察されるが、新たな芸術表現を求めるアーティストの間で広く知れ渡っていった。こうした既存のセオリーやジャンルにとらわれない自由闊達な今井の芸術活動を支えた根幹は、まさに以上のようなデビュー前(ピアノと戯れながら自然に作曲し始めた幼少期、自らの興味におもむくままにさまざまな芸術表現との関わりを持った学生時代など)に培われたと考えられる。 テレビ作品での仕事NHKのテレビジョン放送開始と同時に影絵劇・人形劇の制作スタッフとして加わり、劇音楽を担当した。NHKのテレビ本放送開始以前、今井はすでに演劇・影絵劇・人形劇の劇音楽を書いており、同局が教育番組で今井の活動を取り上げたことが縁となった。学生時代から純音楽を中心に自己の音楽性に磨きをかける一方で、演劇や映像に対しても総合芸術という観点から大いに興味を抱いていた今井だっただけに、テレビ放送という、当時最先端の表現メディアに創作の場を求めたのは自然な流れだったのかもしれない。
演劇、舞踏作品での仕事早くから演劇や踊りという表現形態に強い創造意欲を掻き立てられていた今井は、純音楽の作曲と並行して舞台演出や演劇音楽の作曲活動にも進出していった。すべての芸術の要素を結集して新しい総合芸術運動を舞台で表現したい、という欲望からだった。その際、舞台演出家・構成作家として名乗ったのが、「まんじ敏幸」という別名だった。当時は芸術のジャンルが綿密に分けられていたことから、作曲家が舞台演出等に関わると無用な誤解を受ける事例があった。それを避けるため、また日本の芸術界のセクショナリズム主義者に説明するのが億劫となって、1963年(昭和38年)、フランツ・カフカ原作の『Der Prozess(審判)』の演出からこの別名を用いた。このような活動を通じて今井はパントマイムのヨネヤマ・ママコ、モダン・ダンスの三条万里子、舞踏家(暗黒舞踏家)・振付師の土方巽を指導し、世に紹介した。石井漠、ノイエタンツ、江口隆哉・宮操子の流れを汲み、舞踏界の発展に寄与し100歳を超えても第一線で活躍を続けた大野一雄(江口隆哉・宮操子舞踊団で助教師をし、舞踊団の若手と創作活動に従事していた頃、今井と出会い、たがいに共感して舞台作品を共作した)や、本場スペインでのフラメンコ修行からスタートし、全く新しい独自の境地を切り拓いた創作舞踊家・長嶺ヤス子などとも今井は企画・演出・プロデューサーとして舞台の創作活動を共にした。
実は今井は1950年(昭和25年)頃から、豊川稲荷(豊川稲荷東京別院)の近くにあった赤坂芸術村(通称“赤坂村”)へ、江田和雄(劇団人間座の創立者で茗荷谷の林泉寺・住職)と一緒によく通っていた。敗戦直後の赤坂界隈には、進駐軍相手の娼婦宿があった。その名残が色濃い地に、さまざまな若い芸術家たちが集まっていた。その中には、河原温、荒川修作、黒木不具人、藤原有司男、池田龍雄、金森馨ら、前衛意識の強い若い画家たちや、フランス文学の栗田勇、美術評論家のヨシダ・ヨシエ、奈良原一高などもいた。今井は彼らと交流することにより、前衛的な新分野の創造に惹かれていったようだ。現代舞台芸術協会の設立は、その時から培ってきた意欲を具体的に表した行動だった。
フラメンコ、スペイン舞踊作品での仕事今井はフラメンコやスペイン舞踊の分野でも大きな足跡を残した。ソシエテ・デ・ザール人脈により、今井と面識があった女優の小松原庸子が本格的にスペイン舞踊への道を踏み出した際、彼女の公演の演出と音楽を引き受けたのがその第一歩となった。今井は小松原の活動の拠点としてスタジオ・アルス・ノーヴァを無償で提供するなど「小松原庸子スペイン舞踊団」創設に助力した。さらに小松原のソル・デ・エスパーニャによる『真夏の夜のフラメンコ』シリーズの企画、スペイン人アーティストの招聘、定期公演の開催などについても全面的に支援した。
映画作品での仕事今井が映画音楽の分野で健筆を振るったのは、いわゆる劇映画ではなく、主にドキュメンタリー映画の分野である。特に1984年(昭和59年)、劇団アルス・ノーヴァの演技部出身のドキュメンタリー映画作家・前田憲二が監督した『沖縄戦の図・命(ぬち)どう宝(丸木位里・俊の記録)』(前田プロモーション)、さらにビルバオ映画祭特別賞を受賞した『土佐の泥絵師「繪金」』(1984/前田プロモーション)の音楽を担当して以来、前田作品に今井の音楽は欠かせないものとなる。なぜ劇映画ではなくドキュメンタリー映画に惹かれたか、については、後年「特に劇映画を避けていたわけでなく、演劇や舞台の仕事で忙しかったので時間がなかった。その点ドキュメンタリー映画は1年に1本ぐらいだし、また、知り合いからのたっての依頼だったので断れなかった」と語っている。 今井の映画音楽の初期作品としては『肌が知っている』、『佐久間』、『愛は惜しみなく』、『生き抜く』、『東京消失』などがある。以下は、映画音楽分野の代表的な作品群である。
純音楽作品での仕事以上のような多様なジャンルでの創作活動と並行して、今井は純音楽の作曲も行なっていた。しかし、それらを旺盛に発表するのは、1990年代以降となる。「純音楽の作曲に際しては『その時々の現代音楽の流行に左右されずに創作する』という姿勢で臨んでいた」とは今井の弁である。今井の曲想、主題にはさまざまな特徴が見出されるが、通奏低音のように一貫しているのは、冒頭に記したように、自らの思想あるいは信念に基づいた、独自の音楽的美学の追求という点である。特に1990年代に入ってからは、いわゆる“シギリヤ”(フラメンコのリズム形態の一つ。古代インドの舞踊様式がヨーロッパに伝播し、フラメンコの音型に発展していったとされている)の多用が顕著となる。今井は“シギリヤ”のリズムをこよなく愛し、こだわり続けている。その魅力について、「フラメンコの歴史や民族性を強く表すリズム形態であり、また東洋と西洋の混血性に惹かれたから」と述べている。
デザイン・設計作品今井は、そのジャンルを超えた芸術表現と豊富な人脈から空間デザイン、ホール設計の仕事もしている。
晩年の活動器楽作品を中心に創作活動を続け、心を寄せる“シギリヤ”を主題に採った室内楽曲やギター曲の作曲・改訂に積極的に取り組んだ。2009年(平成21年)には、伊福部昭作曲『プロメテの火』を今井が『オーケストラの為の交響的舞踊組曲「プロメテの火」』として編曲した[2]。同作品は、伊福部が1950年(昭和25年)に江口隆哉・宮操子舞踊団のために書き下ろした舞踊音楽で、若き日の今井は『プロメテの火』を公演初日に観覧し、そのあまりの衝撃と感動に翌日も劇場に足を運んだ。「『春の祭典』、『イオニゼーション』、『プロメテの火』。これらとの出会いがなかったら今の自分はいない」と今井は語る。『プロメテの火』のスコアは長らく所在不明となっていて、現在では“幻の伊福部バレエ曲”といわれている。それが最近になって、全国巡演用のピアノ四手版のスコアとデッサンのみが発見され、このわずかな手がかりを基に今井が二管編成の管弦楽作品に仕立てたという。今井の師への、また『プロメテの火』へ馳せる想いが充溢する仕上がりとなった。また、2011年の3月と8月に日本カスタネット協会創立10周年記念事業としてイベントが開催されるが、そこで日本カスタネット協会会長・真貝裕司(札幌交響楽団・第一打楽器奏者。2011年に定年退職)からの委嘱による『カスタネット・コンチェルト「Fandangosの変容」』が初演された。 2014年1月4日に食道がんのため他界[1]。この日は81歳の誕生日であった。 伊福部昭との師弟関係師・伊福部昭とは常に深い交流を続けていたという。単に音楽に関わる理論や精神だけでなく、 老子の哲学まで、全人間的な幅広い示唆を受けた、と本人は語る。盟友・池野成を始め、芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄、小杉太一郎、山内正、松村禎三、眞鍋理一郎、三木稔、原田甫、永富正之、石井眞木ら伊福部の愛弟子たちとともに、師の創作活動への献身的サポートも行なったようだ。講義や机上ではなく、実際に師の創作過程、作曲行為に直接関わることで、「音楽とは何か」、「音楽を創る意味とは何か」、「己の志向に則った響きをどう導き出すのか」、といった、音楽家としての創作姿勢のすべてを伊福部から学んだ、と述べる。 このような伊福部昭の教えを最初期に受けた者たちの集まりを、通称“伊福部昭・古弟子会(ふるでしかい)”と称する。一方、彼らより20年以上後に弟子となった、永瀬博彦、甲田潤、和田薫、石丸基司、今井聡らは、“伊福部昭・新弟子会(しんでしかい)”と呼ばれている。新弟子会の面々は、晩年の伊福部が東京音楽大学時代に師弟関係を結んだ音楽家が中心となっている。ただし、これらはいずれも正式に組織化されているわけではなく、あくまで関係者の間での通称である。伊福部自身も、特にそうした枠組みは意識していなかったようだ。 前出の純音楽での活動の項でも記したが、2002年(平成14年)、伊福部昭の米寿を祝う演奏会で、師に献呈する『オーケストラの為の「悠久の舞」』を作曲し、自身の指揮、新交響楽団の演奏によって発表した。同作品は、偉大なる師に対する弟子・今井の敬意が込められた、新たな代表作となった。 “古弟子会”のまとめ役(幹事長的な役割)を担ってきたという関係から、伊福部昭に関連する種々の企画に監修役的立場として参加した。世界的名著として評価の高い伊福部昭著『管絃楽法』上下巻の改定復刻版(『定本 管絃楽法』 / 2008年、音楽之友社)の刊行に際しては、編集・制作委員長を務めた。 教職・参加団体等
エピソード
主要作品一覧テレビ音楽作品
演劇音楽作品
企画・プロデュース作品
舞踊音楽作品
映画音楽作品
ビデオ作品
純音楽作品
歌曲
論文
脚注・参考文献脚注
参考文献
|