リーガ・エスパニョーラ2003-2004
スペインのサッカー国内リーグであるリーガ・エスパニョーラの第73シーズンは、2003年8月30日から2004年5月23日に開催された。 セグンダ・ディビシオン2002-2003で1部リーグ昇格を決め、本シーズンよりプリメーラ・ディビシオンに参戦するのは、レアル・ムルシア、レアル・サラゴサ、アルバセテ・バロンピエの3クラブ[1] 。 ラファエル・ベニテス監督の元、バレンシアCFが2シーズンぶり6回目の優勝を達成した [2]。 チーム構成前シーズン(2002-03)にて、レアル・ソシエダとのトップ争いの末、優勝を飾ったレアル・マドリードであったが、ビセンテ・デル・ボスケ監督(1999-2003)はトルコのチームに移籍し[3]、また、フェルナンド・イエロ、クロード・マケレレ、フェルナンド・モリエンテスといった選手たちは放出となった。一方、マンチェスター・ユナイテッドからデイビッド・ベッカム [4]とポルトガル人監督カルロス・ケイロスを迎えて新たな時代のスタートとなった。レアル・マドリードには、すでにラウル・ゴンザェレス、ルイス・フィーゴ、ジネディーヌ・ジダン、ロベルト・カルロス、ロナウド・ナザーリオがいた。このように、レアル・マドリードの理事会は、"ギャラクティコス "(銀河系軍団)を目指し、スター選手と地元養成選手層からチームを構成した [5]。 一方、FCバルセロナは、数年間タイトルに恵まれず、ジョアン・ガスパール前会長が辞任した後、ジョアン・ラポルタが会長(2003-2010)となり[6]、再建期に入った。ラポルタは、2002年にブラジル代表としてワールドカップで活躍したブラジル人選手、ロナウジーニョ・ガウショと契約した[7]。さらに、メキシコ人のラファエル・マルケスも獲得した [8]。また、新たに、オランダ人フランク・ライカールト(2003-2008)が、スパルタ・ロッテルダム監督の立場から抜擢された[9]。 経過レアル・マドリード当初、リーグは、レアル・マドリードと、2年前の強さを取り戻したバレンシアFCとの間の争いで、最後の3ケ月を残す時点で、2チームは、同ポイントという状況であった。しかし、バレンシアFCは、その地元で、レアル・マドリードに勝ち、また、レアル・マドリードとの地元ベルナベウ・サッカー場での試合で、同点試合になった[10]。しかし、これは、バレンシアFCのカルロス・マルチェナ選手のレアル・マドリードのラウル・ゴンザレスに対するPK が、大きな物議を巻き起こした [11]。試合は、これで同点となり、レアル・マドリードはホームでの敗北を免れた。この問題は、その後も数年間、語り草になった [12]。それ以降、レアル・マドリードは、負のスパイラルに陥っていった。奇しくも、2004年3月11日に、マドリード市で発生したマドリード列車爆破テロ事件の緊急事態は、レアル・マドリードにも影響を与えた。終盤の7試合の内、6試合が敗北となり、スター選手層にふさわしくない状況となった。最終戦では、ホームでのレアル・ソシエダとの対戦で、4-1で敗戦となり、辛うじてリーグ4位を保った[13] 。 バレンシアFCこのようなレアル・マドリードの不振の中、バレンシアFCは、守備に重点をおいた体制でサンティアゴ・カニサレス(1998-2008)GKの強みの元、ビセンテ・ロドリゲス、ミゲル・アンヘル・フェレール等が、得点を確実にした。カニサレスは、このシーズンの最もゴールを防いだ選手に与えられる、4回目のサモラ賞を受賞。バレンシアFCは、このリーグでの優勝のみならず、欧州レベルでも、この勝ち運は継続し、1919年からの85年間のチーム史の中でも、最も特記される年になった[14] [15]。ラファエル・ベニテス監督(2001ー2004)は、その後、リバプールFCに移った。 FCバルセロナFCバルセロナは、ライカールト新監督 [16]の元でスタートしたが、シーズン前半は、チームの融合を図るのに時間を要し、負けが続いて中間位置にとどまっていた。しかし、1月になってから、15試合で13勝と、好調な後半戦となり、最終的に2位に付いた [17]。一方、前シーズン2位であった、レアル・ソシエダは振るわず、6位に終わった。 順位
ピチーチ賞最も多く得点を挙げた選手にはピチーチ賞が贈られる。
スペインプロリーグ機構発行の2003_04版の記録 Memoria de la LFP
サモラ賞
|
Portal di Ensiklopedia Dunia