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リーガ・エスパニョーラ1930-1931 」は
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リーガ・エスパニョーラ1930-1931 があります。
(2019年1月 )
この項目では、1930-1931年シーズンのリーガ・エスパニョーラ (ラ・リーガ、プリメーラ・ディビシオン )について述べる。
リーガ・エスパニョーラ1930-1931 はスペイン のプロサッカーリーグ、リーガ・エスパニョーラ の3回目のシーズンである。
1930年12月7日に開幕し、1931年4月5日に閉幕した。アスレティック・ビルバオ が最終節で2位・3位との当該対戦得失点差により1位を確定し、リーグを2連覇した[ 1] 。
1930-1931年シーズンの昇降格
リーガ・エスパニョーラ1930-31年シーズンのチーム
1930-1931年シーズンの王者アスレティック・ビルバオ 。後列左からムゲルサ 、チッリ2世 、ウルキス 、ラフエンテ 、ブラスコ 、イスピスア 、ウリベ 、ウナムーノ 、カステリャノス 。前列左からバタ 、エチェバリア 、ゴロスティサ 。
デポルティーボ・アラベスが昇格し、全体の半分をバスク州 のクラブチームが占める顔ぶれとなった。
クラブ
ホームタウン
スタジアム
収容人数
監督
デポルティーボ・アラベス
ビトリア=ガステイス
メンディソロツァ
8,000
ホセ・バオンサ
アレナス・デ・ゲチョ
ゲチョ
イバイオンド
18,000
アスレティック・ビルバオ
ビルバオ
サン・マメス
18,000
フレッド・ペントランド
FCバルセロナ
バルセロナ
ラス・コルツ
23,000
ジェイムズ・ベラミー
RCDエスパニョール
バルセロナ
エスタディ・デ・サリア
18,000
パトリシオ・カイセド
CDエウロパ
バルセロナ
カンプ・ダル・ギナルドー
18,000
ジュアン・ブルドゥイ
ラシン・サンタンデール
サンタンデール
エル・サルディネーロ
12,000
ロバート・ファース
レアル・マドリード
マドリード
チャマルティン
16,500
リッポ・ヘルツカ
レアル・ソシエダ
サン・セバスティアン
アトーチャ
12,000
ハリー・ロウ
レアル・ウニオン
イルン
スタジアム・ガル
12,000
シーズンの流れ
王者アスレティック・ビルバオはスタートダッシュに失敗。昇格組のデポルティーボ・アラベスが一時首位に立ち、レアル・マドリードが好調な滑り出し。2シーズン連続で残留争いをしていたラシン・サンタンデールがファース新監督の下で終盤まで上位を争うなど、先の見えない展開が続いた。
中盤戦はハリー・ロウ 新監督を迎えたレアル・ソシエダが7連勝などで首位を走っていたが、第13節終了後ついに首位に立ったビルバオが常時勝ち点2差で肉薄されながらも最終節まで首位をキープ。
そして最終節、優勝の可能性を残すソシエダとラシンが勝利する一方、ビルバオは本拠地でレアル・ウニオンに敗れてしまう。結果3チームが勝ち点22・当該対戦での勝ち点でも並んだが、当該対戦の得失点差で「+7」と大きくリードしていたビルバオが辛くも優勝と連覇を決めた。
前年度より勝ち点が8減り失点も増加した。だがチーム全体で73得点、3人の選手が二桁得点を記録するなど、力押しで競り勝った感のある2回目の優勝だった。
残留争いは、序盤こそFCバルセロナが第5節終了時に最下位になるなど多少の波乱はあったが、前年度に最終節で薄氷の残留を決めたCDエウロパが第5節から5連敗を喫し、以後最下位に定着。エウロパとレアル・ウニオン、RCDエスパニョールらの争いに絞られていった。エウロパは第11節にバルサを敵地で倒し、第16節に本拠地でエスパニョールを破るなど、残留のかかったダービーを制して意地を見せた。
だが後半戦は9位との勝ち点差が「3」に開く節が増え始め、第17節にアレナス・クルブ・デ・ゲチョに敗れた後、ついにウニオン・アラベス・エスパニョールとの勝ち点差が再度「3」に開いたため、最終節を待たずにエウロパの最下位と自動降格が決まった。
なお最終戦はホームでアラベスに1-0で勝利したが、時すでに遅かった。
結果
順位表
出典:
[1] (C) 優勝;
(R) 降格.
注釈:
^ a b c アスレティック・ビルバオは2位ラシン・サンタンデールと3位レアル・ソシエダに対し当該対戦結果がそれぞれ1勝1敗のため勝ち点4-4だが、合計得失点差が「+7」 でラシンの「-3」 とソシエダの「-4」 より優るため順位が上回った。
^ a b アレナス・クルブ・デ・ゲチョはレアル・マドリードとの当該対戦で4-1、2-1と得失点差で優るため順位が上回った。
^ a b デポルティーボ・アラベスはRCDエスパニョールとの当該対戦で4-1、0-2と得失点差で優るため順位が上回った。
勝敗表
昇格チーム
バレンシアCF がセグンダ・ディビシオン1930-1931 で優勝しプリメーラ・ディビシオンへ初昇格を決めた。
得点ランクと記録
できごと
バタは27点で得点王に輝き、1試合最多得点記録の7点はいまだ破られていない。チームも2年連続の2冠を達成した。
シーズン最終日から9日後の4月16日、アルフォンソ13世 が国外亡命 。コパ・デル・レイ1931の開幕を2日後に控えていた時のことだった。急遽、大会名は第二共和政 の意に沿う「コパ・デ・エスパーニャ1931 」に改名され、クラブ名に「レアル」がついているクラブも次々改名するなど、慌ただしい中で大会が開幕。アスレティック・ビルバオが優勝して2年連続の2冠を達成した。のち、後付けでこの大会は「サッカー共和国大統領杯1931 (Copa del Presidente de la República de Fútbol 1931 )」として記録された。
「バタ」ことアグスティン・サウト・アラナが記録した1シーズン27得点は、1940-1941年シーズンに塗り替えられるまで10年間にわたり最高記録であった。
バタが1931年2月8日の第10節FCバルセロナ戦で記録した1試合7得点は、21年後にクバラ が1試合7得点を決めるまで単独トップの記録であった[ 3] 。
脚注
外部リンク