リーガ・エスパニョーラ1982-1983
リーガ・エスパニョーラ1982-1983(1982–83 La Liga)は、リーガ・エスパニョーラの第52回目のシーズンである。 1982年9月4日から1983年5月1日までに、18のチーム間で試合が行われた。このシーズンでは、アスレティック・ビルバオが、27年ぶり7回目の優勝をした。これによって、前の2シーズンのレアル・ソシエダの連続優勝に続き、ヴァスク州のチームがトップになった。 経過アスレティック・ビルバオは、第1リーグの中でもっとも若い監督、ハビエル・クレメンテ(Javier Clemente)に率いられており、しかも選手は、すべて地元出身であった。レアル・マドリードやF.C.バルセロナ、2回連勝のレアル・ソシエダ等の強豪の中にあった。しかも、バルセロナは、ディエゴ・マラドナ選手を、当時、過去最高の12億ペセタでスカウトしていた。 シーズン前半には、レアル・マドリードが首位を占めており、強豪がその後を追っていた。アスレティック・ビルバオは、レアル・マドリードに1ポイント差で付いていた。一方、マラドナは、シーズン途中で肝炎になった。シーズン後半では、一時、バルセロナが好調であったが、他チームも食い下がっていた。 シーズンも終盤戦になると、バルセロナがレアル・マドリードを2対1で破るゲームがあり、アスレティック・ビルバオが、一時的に1位になった。しかし、次の週、アスレティック・ビルバオは、地元試合で、レアル・マドリードに2対0で敗れた。一方、バルセロナは、レアル・ソシエダに敗れ、上位との差が広がり、首位から遠のいた。最終的に、優勝は、上位の2つのチームのどちらかが手にすることになった。 優勝決定の2試合は、シーズン最終日の5月1日に平行して行われ、緊迫したものになった。レアル・マドリードは、下位のバレンシアCFとの試合で、しかも、優勝には、引き分けで十分であった。しかし、一方、バレンシアCFは、経済的困窮に陥っており、ほぼ資産凍結状態にあった。この試合に負けると、クラブ史上初めて第2リーグに降格になる状況で、クラブの存続をかけた背水の陣であった。一方、アスレチックの方は、これも、降格候補のUDラス・パルマス(カナリア諸島)との、その地元での対戦であった。 アスレティックの試合では、UDラス・パルマスが、開始3分先制したが、直後にサラビア選手(マヌエル・サラビア)により同点に追いついた。一方、レアル・マドリードの試合では、39分に、地元バレンシアのテンディーリョ選手(ミゲル・テンディーリョ)がゴールを決めた。ほぼ同じころ、アスレティックのダニ選手(ダニエル・ルイス)が、1ゴールを決めた。 試合後半、アスレティックが3ゴール目を追加し、リードを広げていたが、一方、レアル・マドリードの試合では、苦しい守備を見せるバレンシアCFを崩すことができなかった。マドリードの不運(2本のシュートがポストに当たった)や、GKベルメルの防御、審判が合図しなかったフアニート(フアン・ゴメス・ゴンザレス)に対するPK疑惑等により、試合結果は、1対0となった。 この2試合の結果、アスレティックがタイトルを獲得し、バレンシアは、第1リーグに存続できた。一方、ラス・パルマスは19シーズン連続で第1リーグに在籍した後に、降格となった。 所属クラブ順位表
表彰ピチーチ賞
サモラ賞
外部リンク
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