ラウル・アマリージャ
ラウル・アマリージャ(Raúl Vicente Amarilla Vera、1960年7月19日 - )は、パラグアイ・ルケ出身の元サッカー選手。選手時代のポジションはフォワードであり、189cmの長身を生かしたヘディングを最大の武器としていた[2]。息子のラウル・アマリージャ・ロメロもサッカー選手である[3]。パラグアイでは国民的英雄で、パラグアイのジーコとも呼ばれていた[4]。妻は元パラグアイ代表のフリオ・セサル・ロメロの妹[5]。 経歴選手時代パラグアイ、スペインの二重国籍を持ち、本来の母国であるパラグアイ代表入りを目指したが レアル・サラゴサ在籍時にスペインU-21代表として公式戦に出場していたため、当時の国際サッカー連盟の規定によりパラグアイ代表としてプレーすることができなかった[6]。1984-85シーズン途中から1988年まではスペインのFCバルセロナでプレーし、リーガ優勝やスペイン国王杯優勝を経験した。 1989年には通算10ゴールをあげてオリンピア・アスンシオンのリベルタドーレス杯決勝進出に貢献、決勝では敗れた[5]。一時メキシコのクラブ・アメリカへ移籍していたため、翌年のリベルタドーレス杯では2次ラウンドからオリンピアに複帰、5試合6得点、出場した試合全てでゴールを決め、リベルタドーレス杯の優勝に貢献し[5]、南米年間最優秀選手賞を受賞[6]。同年12月のトヨタカップで訪日し、イタリアのACミランと対戦した(試合は0-3でオリンピアの敗退)[7]。 1993年から日本の横浜フリューゲルスに入団し、11月13日の清水エスパルス戦でJリーグ初ゴール[8]、当初それ程実力を発輝出来ずにいたが[4]、第73回天皇杯全日本サッカー選手権大会では実力を見せ[4]、1994年1月1日、決勝の鹿島アントラーズ戦では延長戦に入り2ゴールを決め、チーム初タイトルに貢献した[6]。1994年シーズンは開幕からゴールを量産して得点王トップに立ち、得点王を狙える位置にいたが、恥骨結合炎を発症し、後期開幕を前に引退を決断した。Jリーグでは26試合15ゴールの成績を残した[8]。 引退後引退後はサッカー指導者となり、スポルティボ・サン・ロレンソ、タクアリーFC、スポルティボ・ルケーニョなどのクラブを指導[1]。2006年にドイツで開催された2006 FIFAワールドカップの際にはウルグアイ人監督のアニバル・ルイスの下でアシスタントコーチを務め[1]、ルイスの退任後はヘラルド・マルティーノに引き継ぐまでの間、暫定監督を務めた[9]。 その後はサッカーとは距離を置き、アルト・パラナ県のスポーツ長官を務めた[1]。2017年9月に古巣のオリンピアに復帰すると[1]、2020年時点では同クラブのスポーツマネージャーを務めている[10]。 個人成績
その他の公式戦
タイトルクラブバルセロナ
オリンピア
横浜フリューゲルス
個人
脚注
関連項目外部リンク
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