ビセンテ・ロドリゲス
ビセンテ・ロドリゲス・ギジェン(Vicente Rodríguez Guillén、1981年7月16日 - )は、スペイン・バレンシア出身の元サッカー選手。元スペイン代表。ポジションはMF(左ウインガー)。登録名は「ビセンテ(Vicente)」。 優れたテクニックや得点能力を兼ね備えた左ウインガーであったが、幾度もの怪我によってその才能を十分に発揮できないでいた[1][2]。 経歴クラブ幼少時代から地元のクラブバレンシアCFを応援していた。バレンシアにあるレバンテUDの下部組織に入団し、16歳だった1997年11月23日にCDレガネス戦でトップチームデビューした。セグンダ・ディビシオン(2部)に属していたレバンテUDでの活躍から、アーセナルFC、バレンシアCF、レアル・マドリードなどが注目する存在となり、2000年夏にバレンシアCFに移籍した。 左ウイングのキリ・ゴンサレスとのポジション争いに勝利し、2000-01シーズンはプリメーラ・ディビシオン(1部)初挑戦ながら33試合に出場して5得点を挙げる活躍を見せた。それに加えてUEFAチャンピオンズリーグでは13試合に出場したが、バイエルン・ミュンヘンとの決勝戦はベンチで敗戦を眺めた。2001年夏にラファエル・ベニテス監督が就任すると、自身の出場試合数・得点数は減らしたが30年ぶりのリーグ優勝を果たした。2003-04シーズンは33試合出場12得点と絶好調で、自身2度目のリーグ優勝を果たし、UEFAカップでは7試合に出場して2得点をマークし、決勝ではミスタの得点をアシストして優勝に貢献した。 2004年夏にはビッグクラブからの誘いがあったが、バレンシアCFとの契約を4年延長した。2004年のバロンドール投票では1ポイントを獲得して28位にランクインした。イタリア人のクラウディオ・ラニエリ監督が就任したことや、足首の怪我に悩まされたことから出場機会を減らし、2004-05シーズンのリーグ戦出場はわずか12試合にとどまり、チームも7位に終わった。2005-06シーズンも足首の怪我に苦しみ、優勝したFCバルセロナから勝ち点11も離された。足首の他にもしばしば怪我で離脱したが、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ・チェルシーFC戦ファーストレグでは太ももを負傷し[3]、その後のシーズンを棒に振った。ダビド・シルバが台頭したこともあり、リーグ戦出場は16試合にとどまった。 2007年9月にはクラブのメディカルスタッフが「ビセンテの筋肉トラブルは彼の精神的な問題によるもの」と発言し、それに対して不満を爆発させた。UEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦のIFエルフスボリ戦で復活弾を決めたが、トレーニング中の負傷によりベンチから眺める試合が続き、2007-08シーズンは17試合出場にとどまった。2008-09シーズンはフアン・マヌエル・マタとの交代で出場することが多かったが、過去5シーズンで最多の27試合に出場し、6得点を挙げた。2009-10シーズンは前半戦を丸々棒に振り、2010年1月6日にリーグ戦初出場を果たした。 ケガや若手の台頭で出場機会が減っていき、契約最終年である2010-11シーズンも、途中出場を含め17試合に留まった。契約の延長はされず、11年過ごしたクラブを契約満了で退団した。 2011年8月、フットボールリーグ・チャンピオンシップ (イングランド2部相当)に昇格したブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCと1年契約を結んだ。 2014年4月17日に、現役引退を発表した[4]。 スペイン代表1998年にはUEFA U-16欧州選手権に出場し、1999年にはイケル・カシージャスらとともにUEFA-CAF メリディアン・カップを制した。2001年3月のサッカーフランス代表との親善試合でスペイン代表デビューした。2002 FIFAワールドカップの本大会参加メンバーからは落選したが、ポルトガルで開催されたUEFA欧州選手権2004には選ばれ、グループリーグ3試合すべてに出場した。2005年10月、スペイン代表合宿中にカルレス・プジョルに足首を激しく削られ、取っ組み合いの喧嘩になったことがある。2006 FIFAワールドカップのスペイン代表候補27名に残ったが、本大会出場メンバーからは落選した。 所属クラブ
代表38試合 / 3得点
タイトルクラブ
スペイン代表
脚注
外部リンク |