現在のカスティーリャ・ラ・マンチャ州 (濃い灰色)とラ・マンチャ地方(赤)の位置
ラ・マンチャ地方 (La Mancha )はスペイン の中部に位置する歴史的地方の一つで、現在のカスティーリャ=ラ・マンチャ自治州 のうち、アルバセテ県 、シウダー・レアル県 、クエンカ県 及びトレド県 の領域のかなりの部分に相当する。
面積は30,000km²以上[ 1] [ 2] [ 3] で、東西におよそ300km、南北およそ180kmで、イベリア半島 の台地にある自然発生的に形成された地方で最も大きい広がりを持ち、中央台地(メセタ )のうちの南東部分、南メセタに位置する。
スペインを代表する作家ミゲル・デ・セルバンテス の代表作『才知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ 』の主人公ドン・キホーテ が行う、数々の冒険の舞台となった地方ということで世界的に知られている。
地勢および境界
この節には内容がありません。 加筆 して下さる協力者を求めています。 (2023年2月 )
歴史
先史時代および古代
ビチャ・デ・バラソーテ(Bicha de Balazote )、ラ・マンチャで発見されたイベリア人の美術
ラ・マンチャ地方の先史時代の遺構は少なくはないが、その研究は十分なものとはいえないのが現状である。数多くの旧石器時代 の遺跡が、とくに川の近くに確認されており、これは季節的な野営地と考えられている[ 4] 。グアディアナ川 とその支流がこの地域にこのタイプの遺跡を多く形成させた。たとえばコルコレス川 (スペイン語版 ) やソトゥエラモス川、カニャーダ・デ・バルデロボス川流域のアルト・グアディアナ地域(アルバセテ県 )では中期旧石器時代の多くの遺跡が集中的に発見されている[ 5] 。また、シウダー・レアル県内のグアディアナ川流域でも同様に多くの遺跡が残されている。この時代の美術については、イベリア半島の地中海沿岸地域で見られるような岩絵にも似た洞窟壁画 がフエンカリエンテ で発見されている。
新石器時代 と青銅器時代 の間、南部および中部地域(シウダー・レアル東部からアルバセテ西部にかけて)ラス・モティージャス文化(Cultura de las Motillas )と呼ばれる文化が栄えた。この文化の担い手は防御のために、人口の丘を作り、周囲に同心円状の何重ものの城壁をめぐらした住居を建てて定住した。後にこの地はインド・ヨーロッパ系の部族による度重なる侵入を受け、また、イベリア人 の文化の影響も受けた。とくにアルバセテ県とシウダー・レアル県の領域にはセロ・デ・ロス・サントス (スペイン語版 ) や、ジャノ・デ・ラ・コンソラション (スペイン語版 ) 、ポソ・モーロ (スペイン語版 ) 、エル・アマレッホ、アラルコス (スペイン語版 ) などの重要な遺跡が発見されている。
中世
紀元5世紀にローマ帝国 が崩壊し、この地でのローマ人支配が終焉すると、ヴァンダル族 、アラン族 が相次いで侵入、その後西ゴート族 が侵入、569年 にトレド を首都に西ゴート王国 を打ち立てた。しかし、この時期にはラ・マンチャ地方の多くの地域は荒れ果て、無人地帯が広がっていた。
711年 、ジブラルタル海峡 を渡ってアラブ人 が侵入、短期間のうちに北部を除くイベリア半島 の大部分を制圧、イスラム教 の支配がはじまった。このイスラム教徒 支配地域は後にアル=アンダルス と呼ばれるようになる。多くの専門家たちによると、地名のマンチャの語源はアラビア語の「水のない土地」を意味するManxa あるいはAl-Mansha 、または「高い平原」、「高い場所」を意味するManya に由来するとしており、現在これらがマンチャという地名の起源として最も受け入れられている[ 6] 。イスラム教徒支配下のラ・マンチャは、基本的に人口密度は低い状態が続いたものの、繊維産業の重要な中心地となったトレド、クエンカ 、アルカラス (スペイン語版 ) などの都市が出現し、発展した。アラブ人たちはその進んだ灌漑 技術によってこの地方の農業を大いに発展させ、またヒツジ(メリノ種 )を導入することにより牧畜業にも寄与した。
カラトラーバ・ラ・ビエッハ遺跡
後ウマイヤ朝 の崩壊後、ラ・マンチャの大部分はトレド王国 の支配下におかれたが、この地をめぐってセビリア王国 やムルシア王国 (es )と対立した。トレド 市民の援助におけるキリスト教 国のカスティーリャ王国 の関与は1085年 のトレドの降伏によって一つの頂点に達した。このことはラ・マンチャの再征服が開始されたと同時に、その北部地域がカスティーリャ王国の版図に組み込まれたことを意味した。
しかしながら、カスティーリャは他のタイファ 諸国の救援のために呼ばれ、アル=アンダルスを統一したムラービト朝 と対峙することとなった。そのため、ラ・マンチャは断続的に、両軍による襲撃がおこなわれる戦場と化し、無人の野となった。1108年 のウクレスの戦い (スペイン語版 ) でムラービト朝はカスティーリャに勝利しその版図は最大となり、カスティーリャ軍はタホ川 までの後退を余儀なくされた。
しかし1144年 にムラービト朝が衰退し始めると、再びタイファ諸国が自立し始め、そのことはムワッヒド朝 の侵入をもたらした。このような状況はラ・マンチャにおけるキリスト教徒側の攻勢を後押し、1147年 にはカラトラバ・ラ・ビエハ (スペイン語版 ) を陥落させ、1158年 にはカラトラバ騎士団 の創設者であるライムンド・デ・フィテーロ (スペイン語版 ) をしてそこの防御に当たらせることとなった。しかしながら、1195年 のアラルコスの戦い (スペイン語版 ) でのムワッヒド軍に対するカスティーリャ側の敗北は同騎士団に壊滅的打撃を与え、キリスト教徒によるレコンキスタを停滞させた。
そして1212年 に再び両軍が戦場であいまみえるナバス・デ・トロサの戦い が勃発してカスティーリャが勝利、戦後最終的にラ・マンチャ地方のほぼ全域はカスティーリャの支配に服するところとなった。ラ・マンチャよりグアダルキビール川 の谷地域の入植が優先されたので、この地域は騎士修道会 に委ねられることとなった。このような経緯でカンポ・デ・カラトラバ地区 (スペイン語版 ) はカラトラバ騎士団の支配下に残され(その支配地の半ばには、騎士団の力を牽制するために1255年 にアルフォンソ10世 (賢王)によってVilla Real (王の村の意)、現在のシウダー・レアル (王の市の意)が設立された)、聖ヨハネ騎士団 (Orden de San Juan)はカンポ・デ・サン・フアン地区 (スペイン語版 ) を、サンティアゴ騎士団 はウクレス と、マンチャ・アルタ地区 (スペイン語版 ) ならびにカンポ・デ・モンティエル地区 (スペイン語版 ) のかなりの部分をその支配下にとどめた。
ラ・マンチャ東部地域マンチャ・デ・モンタラゴン地区 (スペイン語版 ) がキリスト教徒によって再征服されて10年余り後の1237年 にこの地についての初めての言及が残されている[ 7] 。それにはla Mancha de Haver Garat と記され、地名としてMancha が初めて用いられている。 マンチャ・デ・モンタラゴン地区の大部分は13世紀から14世紀にかけて、ビジェーナの領主(Señorío de Villena )の支配下にあった。しかし、カンポ・デ・モンティエルの東部地域は、たとえばシエラ・デ・アルカラス地区 (スペイン語版 ) はアルカラスの外延部入植地域となった。
かつてのコムン・デ・ラ・マンチャと現在のカスティーリャ=ラ・マンチャ自治州の領域
サンティアゴ騎士団はその支配地をコムン・デ・ウクレス(Común de Uclés)、コムン・デ・ラ・マンチャ(Común de La Mancha)、コムン・デ・モンティエル(Común de Montiel)の3つの共同体に分割した。これらのコムン共同体は財政および牧畜上の目的によって同一の権限を有する村の連合体であった。コムン・デ・ラ・マンチャは1353年にはキンタナール・デ・ラ・オルデン を筆頭にグアディアナ川とヒグエーラ川 (スペイン語版 ) の間の地域をその領域とした。1478年から1603年までの間コムン・デ・ラ・マンチャに属した村は以下のものである[ 8] :
ジャン・フロワサール によるモンティエルの戦いのミニアチュール(15世紀)
トレド王国とムルシア王国(南東部)の領域がカスティーリャに組み入れられたことにより、ラ・マンチャは次の世紀のカスティーリャの内戦の舞台となり、多くの被害を受けることとなった。また、カスティーリャとアラゴン の境界地域にあることから、両軍の戦闘の舞台ともなった。
1351年 から1369年 まで続いた第一次カスティーリャ継承戦争 では、ペドロ1世 (残酷王 あるいは正義王 、彼の支持者によれば)と異母兄で前王アルフォンソ11世 の庶子エンリケ・デ・トラスタマラ の間で戦われた。この戦争にフランス とイングランド との間の百年戦争 が加わり、カスティーリャのペドロ1世とアラゴンのペドロ4世 の間で戦われた両ペドロ戦争 (スペイン語版 ) (1356年 - 1359年 )もそこに加わった。
戦いはラ・マンチャの平原で決着した。1369年のモンティエルの戦い でエンリケはペドロ1世を打ち負かし殺害、カスティーリャの新国王エンリケ2世として即位した。戦争の結果として、エンリケ2世はビジェーナ領主(Señorío de Villena )を侯爵 (スペイン語版 ) にし(カスティーリャ王国内で初めて)、アルフォンソ・デ・アラゴン (スペイン語版 ) に授けた。また、14世紀に全ヨーロッパに猛威をふるったペスト の流行が、戦争による人口の減少に追い打ちをかけた。
15世紀になっても同様に、カスティーリャとラ・マンチャには、王国内の様々な党派間の対立が巻き起こった。それは1475年 に頂点に達し、エンリケ4世 の娘フアナ とエンリケ4世の異母妹イサベル1世 の支持者との間で第二次カスティーリャ継承戦争 (スペイン語版 ) が勃発した。フアナがポルトガル王アフォンソ5世 と、イサベルがアラゴンの王位継承者フェルナンド とそれぞれ結婚したため、戦争は国際的な様相を示し始めた。戦争は1479年 に後にカトリック両王 と呼ばれることになるイサベルとフェルナンドの勝利に終わり、アルカソヴァス条約 (スペイン語版 ) が締結された。その後カトリック両王は神聖兄弟団 (スペイン語版 ) と異端審問所 を創設、1492年 にはナスル朝 グラナダ王国 を征服、イベリア半島のイスラム教徒勢力支配を終わらせ、ラ・マンチャ南部におけるモーロ人 による攻撃の危険性を取り除いた。
近代
16世紀に最後のカスティーリャ王国内での内乱がおきた。フアナ (狂女王)の息子で、カトリック両王の孫であるカルロス1世 が即位し、フランドル 出身の側近者で政府を固めたことで、敵を作ってしまった。1520年にカスティーリャの多くの都市で反乱が起き、コムニダーデスの反乱 が勃発した。トレドは反乱の主要な拠点の一つとなり、フアナの復位などを要求した。内乱は1522年反乱側の敗北で終結、翌1523年にはローマ教皇 ハドリアヌス6世 がスペイン王室にサンティアゴ騎士団とカラトラバ騎士団の両騎士修道会を結合させた。
カンポ・デ・クリプターナ の風車群
ラ・マンチャ、有名な騎士ドン・キホーテ の故郷
モリスコ の反乱であるアルプハーラスの反乱 (スペイン語版 ) (1568年 - 1571年)がモリスコ側の敗北に終わり、フェリペ2世 はカスティーリャ、そしてラ・マンチャからの彼らの追放を、そして1609年最終的に国外への追放を命じた。16世紀にラ・マンチャ地方の広範な地域で、穀物をひくために風車 が建設された[ 9] 。この時期の社会とラ・マンチャの様子を描いたミゲル・デ・セルバンテス の『ドン・キホーテ 』は国際的な評価を得、不朽の名声を得た。正篇(『才知あふれる郷士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』)は1605年に、続篇(『才知あふれる騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』)は1615年に出版された。16世紀から17世紀の間、ラ・マンチャはスペインの他の地方同様アウストリア家(Casa de Austria、ハプスブルク家のこと)の支配する国外での絶え間ない戦争の影響を受け続けた。
1701年から1714年の間、アンジュー公フィリップ を推すカスティーリャとカール大公 を推すアラゴンの間でスペイン継承戦争 が戦われた。戦争は最終的にフェリーペ5世(アンジュー公フィリップ)側の勝利に終わった。ボルボン家 支配のもと、18世紀啓蒙専制政治 が行われた。
ラ・マンチャ県を構成した区域と現在のカスティーリャ=ラ・マンチャ自治州()内の年はラ・マンチャ県に属した期間): シウダ・レアル(1691-1810; 1814-1822; 1823-1833)
アルマグロ区域、サンティアゴ騎士団区域 (1691-1810; 1814-1822; 1823-1833)
アルカーラス区域(1691-1810; 1814-1822; 1823-1833)
ビジャヌエバ・デ・ロス・インファンテス区域、サンティアゴ騎士団区域(1691-1810; 1814-1822; 1823-1833)
ビジャヌエバ・デ・ロス・インファンテス区域、サンティアゴ騎士団区域(メサ・デル・キンタナールの諸自治体) (1785-1810; 1814-1822; 1823-1833)
サン・フアン大修道院区域(1799-1810; 1814-1822; 1823-1833)
1691年に行政の効率化のためにトレド王国の残りの地域は分離され、アルカラス、アルマグロ 、シウダー・レアル、ビジャヌエバ・デ・ロス・インファンテス の各管轄区域に編入されることが決定した。当初、首都はシウダー・レアルにおかれたが、1750年から1761年にかけての短期間アルマグロに移された。その後1785年のフロリダブランカ伯爵 の改革で、メサ・キンタナールのサンティアゴ騎士団領の村はラ・マンチャ県(Provincia de La Mancha)に編入され、1799年にはサン・フアン修道院管轄区域がトレド県から切り離され、同じくラ・マンチャ県に編入された。このフロリダブランカ伯爵の改革では、トレド県、クエンカ県が設立される一方、現在のアルバセテ県の大部分を占める地域がムルシア県に加えられ、同県は北西部に領域を拡大することとなった。そしてラ・マンチャ県、クエンカ県、トレド県にグアダラハーラ県とマドリード県を加えて新カスティーリャ地方が形成された。
現代
1808年から1813年にかけてのスペイン独立戦争 では、ラ・マンチャはナポレオン によって据えられたホセ1世 を守るためのフランス軍とフェルナンド7世 の復位を望む愛国主義ゲリラ たちとの間で戦われた戦闘の舞台となり多大な被害をこうむった。
この地での戦争ではバルデペーニャスの戦い (スペイン語版 ) とシウダー・レアルの戦い (スペイン語版 ) が知られている。
ラ・マンチャでもスペインの他の地方同様、フランス支持者統治に対する抵抗組織としての地区評議会のラ・マンチャ最高評議会が設立された。評議会は1811年から12年にかけてエルチェ・デ・ラ・シエラ (スペイン語版 ) 、アルカラス、シウダー・レアルなどから断続的に冊子Gazeta de la Junta Superior de la Mancha を発行した。
戦争の間にも県の配置 (スペイン語版 ) が企図されていた。フランス支持者の行政機構は、1810年歴史的関係・つながりなどを無視した形でprefectura という名称での分割を行い、ラ・マンチャの首都をマンサナーレス の村に置いた。これに対してカディス議会 (スペイン語版 ) は、1813年別の分割案を提示した。1814年のフェルナンド7世の復位後、これらの分割案のどちらも採用されることはなく、再び絶対主義 へと逆戻りした。
1820年のラファエル・デル・リエゴ のプロヌンシアミエント(クーデター宣言) の後、自由主義者たちが権力を掌握した。1822年には新分割案が可決され
[ 10] 、ラ・マンチャ県はその大部分がシウダー・レアル県に改編され、消滅した。また、ラ・マンチャ県の残りの領域と、クエンカ県、ムルシア地方などから構成された新しい県チンチージャ県が設立された。しかしながら、1823年にフェルナンド7世の要請で「聖ルイの10万の息子たち (スペイン語版 ) 」と呼ばれたフランス軍の介入によって自由主義の3年間 が倒れ(そして同時に分割案も復された)、自由主義者の迫害が行われた。
1833年にフェルナンド7世が死去し、娘のイサベル2世 が後を継いだ。母の摂政 マリア・クリスティーナ・デ・ボルボン はフェルナンド7世の弟で、王位を宣言したカルロス・マリーア・イシドーロ・デ・ボルボン の支持者に対抗するために、自由主義勢力を味方につけるべく譲歩せざるを得なかった。この年に現在のアルバセーテ県、シウダー・レアル県、クエンカ県、トレード県が創設され、最終的にラ・マンチャ県が消滅した。そしてシウダー・レアル県、クエンカ県、トレド県、マドリード県、グアダラハーラ県によってカスティーリャ・ラ・ヌエバ地方が、アルバセテ県とムルシア県によってムルシア地方が設立された。この地方分割案で後に変更されたのは1836年にそれまでアルバセテ県に属していたビジェーナ がアリカンテ県 へ、1846年にシウダー・レアル県からビジャロブレード がアルバセーテ県へ、1851年にクエンカ県からウティエル がバレンシア県 へと異動したのみである。
カルリスタ戦争 (1833年 - 1840年、1846年 - 1849年、1872年 - 1876年)では、ラ・マンチャの大部分はマドリード政府を支持した。これは政府の自由主義政策のためであった。しかし、このことはカルリスタ支持側の動きが皆無であったということではなく、いくつかの村はカルリスタ支持にまわった。とくにクエンカ県北部ではカルリスタは一定の支持を得た。そして、同時に法を無視した行いが頂点に達した。
19世紀には、ラ・マンチャはスペインの地方の中で最もメンディサバルとマドスによる永代所有財産解放令 の影響を受けた。
スペイン内の、ラ・マンチャ地域主義に基づく"ラ・マンチャ諸県"
1868年革命 (スペイン語版 ) によるイサベル2世の退位後、連邦共和党 (スペイン語版 ) のメンバーがアルカサル・デ・サン・フアン に集まり、会合し、ラ・マンチャ地方協定に署名した。しかしながら、1873年の連邦憲法計画(Proyecto de Constitución Federal de 1873 )では、カスティーリャ・ラ・ヌエバ州(Estado de Castilla la Nueva)とムルシア州(Estado de Murcia)の創設が考慮され、ラ・マンチャ州(Estado de La Mancha)の設立は考慮されなかった[ 11] 。しかし同年のカントナリスタ蜂起 (スペイン語版 ) では、シウダー・レアルにおいてラ・マンチャ・カントン(Cantón Manchego)設立を宣言し、蜂起がおこった[ 12] が、国内の他のカントナリスタ蜂起同様失敗に終わった。そして1874年のスペイン第一共和国 の瓦解とともに連邦主義の期待は潰えた。
1906年マドリードのラ・マンチャ地域センターにおいてラ・マンチャ地域主義 (スペイン語版 ) が表明され、ラ・マンチャの旗、歌の制定[ 13] と、アルバセテ県、シウダー・レアル県、クエンカ県、トレド県によって構成されるラ・マンチャ地方の創設の支持が決められた。1913年の(県によって構成される)共同体に関する王令(Real Decreto sobre Mancomunidades de 18 de diciembre de 1913)により、前述の4県によるラ・マンチャ共同体(Mancomunidad Manchega)創設の可能性が出てきた。1919年にはマドリードでのラ・マンチャ青年中央大会でラ・マンチャ共同体創設が要求され、1924年にはアルバセテ県議会において、最終的に可決には至らなかったもののラ・マンチャ共同体創設が提案された。
1931年の第2共和国宣言後、下院議員による会合が持たれ、そして1933年には4県の県議会議長によって自治憲章 (スペイン語版 ) に基づくラ・マンチャ地方の創設の可能性について検討された[ 14] 。スペイン内戦 (1936年 - 1939年)の勃発によってこれらの可能性は打ち砕かれた。内戦中はラ・マンチャ地方のほとんどの領域は終戦まで共和国側地域にあった。フランコ時代 の1962年前述の4県の審議会を調整する目的でラ・マンチャ諸県間経済評議会が創設された。
スペイン内のカスティーリャ=ラ・マンチャ自治州
民主化移行後、スペインは自治州に分けられることとなり、1982年アルバセテ県、シウダー・レアル県、クエンカ県、グアダラハーラ県、トレド県により構成されるカスティーリャ=ラ・マンチャ自治州 が創設された。今日ラ・マンチャ地域主義を標榜する政党は存在しないが、自治州のいくつかの機関においてはラ・マンチャ4県を対象としたものがある。たとえばカスティーリャ=ラ・マンチャ大学 の学区にはグアダラハーラ県は含まれておらず、マドリード学区に含まれている(学区以外のものも入学可能)し、カスティーリャ=ラ・マンチャ各県の貯蓄金庫統合によるカスティーリャ=ラ・マンチャ貯蓄金庫 (スペイン語版 ) 設立の際にはグアダラハーラ貯蓄金庫 (スペイン語版 ) は含まれなかったのである。
地理
河川・湖沼
Las Tablas de Daimiel .
ラ・マンチャには大西洋 に注ぐタホ川 、グアディアナ川 、グアダルキビール川 の水系と、地中海 に注ぐフカル川 、セグーラ川 の水系がある。
主要な河川はタホ川、グアディアナ川、フカル川で、他にはシグエラ川 (スペイン語版 ) 、サンカラ川 (スペイン語版 ) 、リアンサレス川 (スペイン語版 ) など[ 15] の支流が流れている。
気候
アルバセーテの年降水量と気温
ラ・マンチャ地方の気候は大陸性地中海気候 で、その特徴は冬の寒さは厳しく、夏は非常に暑く、降雨もまれでかつ不定期で、寒暖の差が激しく、非常に乾燥している。これらは高度や、内陸に位置するなどの地理的要素によるところが大きい。
気温は内陸に位置するため極端で、年間での月平均気温の寒暖の差も激しく、18度から20度程度ある。この地方の大部分で7月の平均気温は22度を超える。
しかし、冬季は寒く、1月の平均気温は地域によっては4°Cを下ることもあり(ベルモンテ (スペイン語版 ) では3.4°C)、冬季そして晩秋、および春先には凍結することもしばしばである。
年降雨量は300mmから400mm程度で、多くの場合春と秋に降り、夏に降るのは非常にまれであり、以上のことからラ・マンチャ地方の大部分は乾燥スペイン(España seca)と呼ばれる領域内に含まれる。
生態系
一帯は海抜600〜700 mの平野 であり、季節的に氾濫 する河川が多く、地下に帯水層 もあるため、湿地 が多い[ 15] 。平野に塩分濃度 の高い湖 群、ヨシ原 、ステップ 、泥炭地 、フェン 、滝 、カルスト地形 、トゥファ が形成される石化泉 が点在する[ 16] [ 17] [ 18] 。地中海地方のイグサ 、スゲ類 のカレックス・フラッカ (英語版 ) 、キショウブ 、シャジクモ類 、ギョリュウ 、ヤナギ 、ヤマナラシ などの植物が生え[ 15] [ 18] 、ホシハジロ 、コスズガモ 、アカハシハジロ 、カオジロオタテガモ 、ウスユキガモ 、オカヨシガモ などのカモ 、ガン 、ハクチョウ 類およびハジロカイツブリ 、オオバン などの水鳥[ 15] [ 17] [ 19] [ 20] 、そして二枚貝 のUnio tumidiformis (英語版 ) や哺乳類のイベリアミズハタネズミ (英語版 ) が生息している[ 18] 。
1980年にタブラス・デ・ダイミエル国立公園 (スペイン語版 ) 、アルカサル・デ・サン・フアン の湖とルイデラ湖沼群自然公園 (スペイン語版 ) は「マンチャ湿地生物圏保護区」としてユネスコ の生物圏保護区 に指定された[ 15] 。また、「アルカサル・デ・サン・フアン 湖沼群」[ 16] 、「ラ・ベガ湖 (スペイン語版 ) 」[ 17] 、「マンハバカス湖 (スペイン語版 ) 」[ 19] 、「タブラス・デ・ダイミエル (スペイン語版 ) 」[ 20] 、「プラド湖」[ 21] 、「ルイデラ湖沼群 (スペイン語版 ) 」[ 18] の6カ所はラムサール条約 登録地である。
人口
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経済
ラ・マンチャは伝統的に農業地域で、工業もあるにはあるが、経済的には全国平均より低い。
現在最も重要な産業分野は、サービス産業で、域内総生産の半分以上、従事者も全労働人口の過半数で、次いで製造業、建設業、農業、牧畜業、漁業となっている。
カスティーリャ=ラ・マンチャ州経済における産業分野別割合(2004年)[ 23]
産業分野
域内総生産における割合(%)
就業人口(%)
農業 、畜産業 、漁労
10.6
15.5
エネルギー産業
3.3
0.7
製造業
14.2
17.3
建設業
11.4
12.2
サービス業
50.4
54.3
Impuestos netos sobre los productos
10.0
0
農業および牧畜業
ラ・マンチャの名称でDO やIGPの原産地呼称制度で保護の対象となっている農業産品: -DO "ラ・マンチャ" (ワイン)[ 24] -DO "ラ・マンチャのサフラン" -IGP "ラ・マンチャメロン" サフラン
サフラン、メロン
農業 と牧畜業 はラ・マンチャ地方の主要な産業である。農業では、乾燥農業 が盛んで、とくに地中海の三大作物とも呼ばれる、穀物類 、ブドウ 、オリーブ が栽培されている。穀物類では、小麦 と大麦 が多く栽培されている。
シウダー・レアル県のブドウ畑
また、ラ・マンチャ地方のブドウ栽培面積は世界一の栽培面積を誇り[ 25] 、アルバセテ県、シウダー・レアル県、クエンカ県、トレド県に広がり、原産地呼称制度 (DO)の対象となっている。栽培面積190,980ヘクタールで、182自治体に及んでおり、ここで生産されるワイン D.O.ラ・マンチャ (Denominación de Origen La Mancha )は単一の生産地としては世界最大生産量を誇る[ 26] 。しかし、原産地呼称ラ・マンチャ以外にも以下のような原産地呼称地域が存在する:D.O.バルデペーニャス (Denominación de Origen Valdepeñas )、D.O.マンチュエーラ (Denominación de Origen Manchuela )、D.O.リベーラ・デル・フカル (Denominación de Origen Ribera del Júcar )、D.O.アルマンサ (Denominación de Origen Almansa )。
他には、サフラン栽培が有名である。この地で生産されるサフランは原産地呼称制度で保護されており、アルバセテ県の全域と、シウダー・レアル県、クエンカ県、トレド県などの一部、総計315自治体で栽培されている。
他には地理的表示 産品として保護されているものとしてはメロンがあげられる。ラ・マンチャ・メロン(Melón de La Mancha)はシウダ・レアル県の13自治体(アルカサル・デ・サン・フアン 、アレナーレス・デ・サン・グレゴリオ 、アルガマシージャ・デ・アルバ 、カンポ・デ・クリプターナ 、ダイミエル 、エレンシア 、ジャーノス 、マンサナーレス 、メンブリージャ 、ソクエジャモス 、トメジョーソ 、バルデペーニャス 、ビジャルタ・デ・サン・フアン )で生産されている。
このほかの原産地呼称産品は、カンポ・デ・モンティエル地区(Campo de Montiel )のオリーブ・オイル 、アルマグロ (スペイン語版 ) のなすび (Berenjena de Almagro )や、ラス・ペドニェーラス (スペイン語版 ) のニンニク がある。
Rebaño de ovejas y cabras en La Mancha.
一方、牧畜業では、ヒツジ の飼育、そしてヤギ の飼育が盛んで、何世紀もの間群れで季節移動を行い、羊毛、ミルク、肉などを生産した。
とくに、ヒツジのミルクから作られるケソ・マンチェゴ (Queso manchego 、ラ・マンチャのチーズの意)はよく知られており、原産地呼称で保護されている。また、子羊 の肉も地理的表示産品として保護されている。これらはアルバセテ県、シウダー・レアル県、クエンカ県、トレド県などの地域で生産されている。
牧羊業に比べると、その重要性は小さくなるものの、豚 、牛 などの牧畜もおこなわれている。
工業、鉱業およびサービス業
ラ・マンチャ地方は伝統的に製造業は盛んではないが、現在アルバセテ 、シウダー・レアル 、プエルトジャーノ などを中心とした地域に工業の中心地域がみられる。また、食品加工産業は全域にみられる。
鉱業 分野では、特に重要なのがプエルトジャーノの炭鉱 で、他にはアルマデン の辰砂 (水銀 の鉱石 )の鉱脈 があり、古代ローマ時代から採掘されている。
サービス産業 については、スペイン国内の他地域同様、20世紀を通じてラ・マンチャ地域経済における重要分野へと変貌していった。サービス産業分野では観光業 、とくにアグリツーリズム (Turismo rural )の成長が著しい。
文化
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ピスト・マンチェゴ という料理の発祥の地である。
脚注
参考文献
外部リンク