フアナ・ラ・ベルトラネーハ
フアナ・ラ・ベルトラネーハ(Juana "La Beltraneja", 1462年2月21日 - 1530年4月12日)は、カスティーリャ王エンリケ4世と2番目の王妃フアナ(ポルトガル王ドゥアルテの娘)の一人娘。 名前について正式にはフアナ・デ・カスティーリャ(Juana de Castilla)あるいはフアナ・デ・トラスタマラ(Juana de Trastámara)であるが、出生に由来しフアナ・ラ・ベルトラネーハ(Juana La Beltraneja) と呼ばれる(後述)。 ポルトガル語名は、ジョアナ・デ・トラスタマラ(Joana de Trastâmara)。 生涯生い立ちマドリードでの出世時から醜聞がフアナについてまわった。エンリケ4世は最初の妃ブランカとは子供をもうけることなく離縁し、2人目の妃フアナにもなかなか子供が産まれず、性的不能者ではないかと囁かれていた。そのため、「王妃フアナはカスティーリャ貴族ベルトラン・ラ・クエバを連れ込んで妊娠したのであり、王女はエンリケ4世の子ではない」と思われていた。揺りかごの中にいた頃から、フアナは「ベルトランの子」という意味で「ラ・ベルトラネーハ」と呼ばれていた[1]。 のち、王妃フアナは司教フォンセカの甥ペドロ・デ・カスティーリャ・イ・フォンセカの元へ走り、彼の子供を2人生んだ[2]。このため、エンリケ4世は彼女も離縁したが、正嫡かどうかは不問のままフアナ・ラ・ベルトラネーハを自身の一人娘として後継者に指名し、カスティーリャ貴族に女王として仕えるよう命じた。この決定に異を唱える貴族は多く、エンリケ4世の異母弟でフアナの叔父にあたるアルフォンソ王子、次いでその姉イサベル王女(のちのイサベル1世)が推された。 父の崩御と内戦→「第二次カスティーリャ継承戦争」も参照
エンリケ4世が1474年に崩御すると、フアナの叔母イサベル王女を支持する勢力が拡大し(フアナの実父とされるベルトランもイサベル支持者であった)、後ろ盾のないフアナは母方の叔父であるポルトガル王アフォンソ5世の元へ救援を求めた[3]。 アフォンソ5世は1475年にフアナと結婚し、翌1476年にカスティーリャへ侵攻した。 しかし、トーロの戦いで、イサベルとその夫フェルナンド5世(のちのアラゴン王フェルナンド2世)の軍に敗退した[3]。 アフォンソ5世はフランス王ルイ11世と同盟の交渉をしたが、失敗に終わった。1479年、アフォンソ5世は、イサベルとフェルナンドの王位の正統性を認める和議に調印した(アルカソヴァス条約)[3]。 ほどなくアフォンソ5世とフアナの結婚は、ローマ教皇シクストゥス4世により、近親婚を理由に無効とされた。正統性を否定されたフアナは修道院に送られ、リスボンで逝去した。死ぬまで手紙には La Reina(女王)と署名していたという[4]。 系図
脚注参考文献
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