ポルトガル君主一覧では、1139年のポルトガル王国の建国から1910年10月5日革命による王政の廃止とポルトガル第一共和政の成立に至るまでのポルトガルの君主について記述する。
概要
ポルトガルでは約800年の間君主制がとられ、歴代の国王は「ポルトガル王」以外に様々な称号を保持、もしくは自称した。フェルナンド1世とアフォンソ5世の2人はカスティーリャ王国の王位を請求し、カスティーリャへの介入を試みた。16世紀のハプスブルク家(アブスブルゴ家)が勢力を拡大した時代、一時期はスペイン・ハプスブルク朝の君主がスペイン・ナポリ=シチリアの国王とポルトガル国王を兼ねていた。ブラガンサ王朝の君主はポルトガル王位のほかにブラジル王、ブラジル皇帝などの称号も保有していた。
1910年の王政打倒後、1919年1月19日に王党派が王政の復活を宣言して政府に反乱を起こしたが(北部王国(英語版))、2月13日に内戦は終結する[1]。最後のポルトガル王マヌエル2世の死後、ミゲル1世の孫であるドゥアルテ・ヌノがポルトガルの王位請求者となった。1949年3月には、ドゥアルテ・ヌノにポルトガル国内への居住が許可された[2]。王政の支持者はドゥアルテ・ヌノから始まる王位請求者を歓迎しているが、ポルトガルの州および議会は彼らをポルトガル王として認めていないため、権力を有しない象徴的な存在に留まっている。
歴代ポルトガル王はいずれも建国者のアフォンソ1世を祖先に持つが、しばしば直系の子孫が断絶した。ポルトガルには、以下の王朝が存在していた。
ボルゴーニャ家(1143年 - 1383年)
ボルゴーニャ家はポルトガル王国を創始した一族として知られている。ボルゴーニャ王朝の祖であるエンリケ・デ・ボルゴーニャ(アンリ・ド・ブルゴーニュ)はフランスのブルゴーニュ出身の有力貴族であり、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世の求めに応じてイベリア半島に渡り、レコンキスタに参加した[3]。エンリケはカスティーリャ王国の封臣としてポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領を統治し[4]、ポルトガル独立の基礎が形成されていく[3]。エンリケの息子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)がポルトガルの独立を宣言した時、ボルゴーニャ家は一貴族から2世紀以上にわたってポルトガルを統治する王家へと転身する。
フェルナンド1世の死後に起きた後継者断絶の危機の後、フェルナンド1世の娘であるベアトリスがポルトガル女王となるが、彼女の夫であるカスティーリャ王フアン1世がポルトガル王位を請求した。ベアトリスをポルトガルの君主に含めるか否かについては、研究者の間で意見が分かれている[5][6]。
アヴィス家(1385年 - 1580年)
1385年にボルゴーニャ王朝に代わってアヴィス王朝が成立する。アヴィス王朝は、即位前にアヴィス騎士団長を務めていたペドロ1世の庶子ジョアン1世を王朝の祖とする[9]。ジョアン1世の曾孫ジョアン2世が嗣子に先立たれて死亡した後、従弟で義弟であるベージャ公マヌエルが王位を継承した。セバスティアン1世は結婚を避けていたため子がおらず[10]、その戦死後に大叔父である枢機卿エンリケが王位を継承した。1580年1月にエンリケ1世は後継者を指名しないまま没し、マヌエル1世の孫であるクラト修道院長ドン・アントニオとブラガンサ公ジョアンの妻カタリーナが有力な後継者候補として挙げられた[11]。彼らと同じくマヌエル1世の孫であるスペイン王フェリペ2世(ポルトガル王としてはフィリペ1世)が王位を請求し、アントニオを破った。
ハプスブルク家(1581年 - 1640年)
1581年から1640年までの間、スペイン・ハプスブルク家(フィリペ王朝)がポルトガルを統治した。アルカンタラの戦いでドン・アントニオを破ったフェリペ2世は、1580年12月にリスボンへ入城し、トマールで開催されたコルテスでポルトガル王を称した[13]。イベリア連合として知られる同君連合の下、ポルトガルは自治権を付与された。時代が進むにつれてスペインへの中央集権化が進められ、ポルトガルには財政・軍事の負担が重くのしかかる[14]。ポルトガル内では独立の機運が高まり、1640年6月のカタルーニャの反乱が再独立運動を後押しした[15]。
ブラガンサ家(1640年 - 1910年)
1640年12月のクーデターの成功の後にポルトガルの再独立が宣言され、コルテスでブラガンサ公ドン・ジョアンのポルトガル王位が承認される[16]。ドン・ジョアンの即位により、ブラガンサ王朝が成立する。ポルトガル王政復古戦争を経て、1668年にポルトガルとスペインの和平が成立した[16]。1853年から1910年までポルトガルに君臨した4人のブラガンサ家の国王の出身家系を指して、「ブラガンサ=コブルゴ家」という呼称が使われる。なお、1910年に父と同時に襲撃され、父の崩御から20分後に死去した王太子ルイス・フィリペについては、父の崩御と同時に王位に即位したとする説とそれを否定する説がある。
脚注
- ^ 合田昌史「現代のポルトガル」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)、440頁
- ^ 井上『南欧史』、382頁
- ^ a b 関哲行「キリスト教諸国家の確立」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)、94、96-97頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、18頁
- ^ David Williamson, «Debrett's Kings and Queens of Europe»,1988,Webb & Bower, Exeter, ISBN 0-86350-194-X; César Olivera Serrano, «Beatriz de Portugal»
- ^ García de Cortázar, Fernando (1999), Breve historia de España, Alianza Editorial, page 712; Armindo de Sousa, in História de Portugal coordinated by José Mattoso, Editorial Estampa, vol. II, ISBN 972-33-0919-X, pages 494/95
- ^ Alphonso(1911 Encyclopædia Britannica)
- ^ 井上『南欧史』、352頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、24頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、54頁
- ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、390-391頁
- ^ 井上『南欧史』、357頁
- ^ 金七『図説 ポルトガルの歴史』、55,58頁
- ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、392頁
- ^ 合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、392-393頁
- ^ a b 金七『図説 ポルトガルの歴史』、74頁
参考文献
- 安部真穏『波乱万丈のポルトガル史』(泰流選書, 泰流社, 1994年7月)
- 井上幸治編『南欧史』(世界各国史, 山川出版社, 1957年3月)
- 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月)
- 合田昌史「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2000年6月)
- Sousa, D. António Caetano de (1946) [1735–49] (Portuguese). História Genealógica da Casa Real Portuguesa. Coimbra: Atlântida-Livraria Eds.. OCLC 20210378
- Jiří Louda & Michael Maclagan (1981), "Portugal", in Lines of Succession. Heraldry of the Royal families of Europe, London, Orbis Publishing, pp. 228–237. ISBN 0-85613-672-7. (revised and updated edition by Prentice Hall College Div - November 1991. ISBN 0-02-897255-4.)
- Luís Amaral & Marcos Soromenho Santos (2002), Costados do Duque de Bragança, Lisboa, Guarda-Mor Edições.
- Afonso Eduardo Martins Zuquete (dir.)(1989), Nobreza de Portugal e Brasil, vol. I, Lisboa, Editorial Enciclopédia.
- Jacob Wilhelm Imhof, Stemma Regum lusitanicum sive Historia genealogica Familiae Regiae Portugallicae, Amsterdam, 1708 (reprint http://www.orsinidemarzo.com/en/index.php?m0=pubblicazioni_dettaglio&articolo_id=192&articolo_tipo=ODM).
関連項目