本項では カスティーリャ の伯、国王、女王 を列挙する。
本項は部分的にはアストゥリアス王の一覧 及びレオン君主一覧 の続きである。
カスティーリャ伯
選ばれた伯
以下の伯は世襲ではなく、アストゥリアス王国 東部の国王 の代理人として指名された者である。早くも867年 にはアラバ及びカスティーリャ伯領が創設され、カスティーリャは幾つかの小さな伯領に分割されて931年 まで統一されることはなかった。
カスティーリャ
(縮小された領域)
ブルゴス
そのカスティーリャの獲得はブルゴスと再統一する結果となり、以後は二つの称号は区別されずほぼ同じ意味で使用された。
カスティーリャ及びブルゴス
アラバ
カスティーリャ王国 の紋章
931年 にフェルナン・ゴンサレス はグティエル・ヌニェス及びアルバロ・エラメリスの継承者に指名されたことで、分割していたカスティーリャ、ブルゴス、アラバ、セレソ、ランタロンを統一し、半自治的な世襲のカスティーリャ伯領とした。
サンチョ3世 が死ぬと、その息子がガルシア2世サンチェスの姉妹でサンチョ3世の妃であるムニアドナ(ラ・マヨール) により伯として任命された。
カスティーリャ国王
君主
肖像画
綽名
統治の開始
統治の終了
備考
フェルナンド1世
大王
1037年
1065年12月27日
レオン国王 を兼ねる
サンチョ2世
強王
1065年12月27日
1072年10月6日
アルフォンソ6世
勇敢王
1072年10月6日
1109年6月30日
レオン国王を兼ねる
ウラカ
1109年6月30日
1126年3月8日
レオン女王を兼ねる
以下の王朝はウラカ の最初の夫ガリシア伯ライムンド の男系子孫である。
君主
肖像画
綽名
統治の開始
統治の終了
備考
アルフォンソ7世
皇帝
1126年3月10日
1157年8月21日
レオン国王を兼ねる
サンチョ3世
強欲王
1157年8月21日
1158年8月31日
アルフォンソ8世
高貴王
1158年8月31日
1214年10月6日
エンリケ1世
1214年10月6日
1217年6月7日
ベレンゲラ
女帝
1217年6月6日
1217年8月30日
最愛の息子であるフェルナンド3世 に譲位する; 1246年死去
フェルナンド3世
聖王
1217年8月30日
1252年5月30日
1230年以降はレオン国王を兼ね、以後の王は皆レオン王位を兼位する。
アルフォンソ10世
賢王
1252年5月30日
1284年4月4日
1257年にローマ王 に選出され、1275年に放棄するまでこの称号を請求した。
サンチョ4世
勇敢王
1284年4月4日
1295年4月25日
フェルナンド4世
召集王
1295年4月25日
1312年9月7日
アルフォンソ11世
正義王
1312年9月7日
1350年3月26日
ペドロ1世
残酷王
1350年3月26日
1369年3月23日
カスティーリャ及びレオン王位の請求者
カスティーリャ連合王国 の紋章 (カスティーリャ及びレオン )
ランカスター公 ジョン・オブ・ゴーント はペドロ1世 の娘であるコンスタンス との結婚を利用してカスティーリャ及びレオンの王号を請求した。ランカスター公は王号を確固とするためロンドン から遠征を強行するなどして幾つかの軍事的行動を起こしたが、成功することはなかった。
アルフォンソ11世 の庶子であるエンリケ2世 に始まり、トラスタマラ公を創立する。
君主
肖像画
綽名
統治の開始
統治の終了
備考
フェリペ1世
美王
1506年7月12日
1506年9月25日
en:jure uxoris 王として妻のフアナ の半分を統治。
カルロス1世
1516年5月13日
1556年1月16日
母のフアナ が幽閉された1555年から共同統治、 1556年に最愛の息子に譲位、1558年9月21日に死去。
以後の君主はスペイン君主一覧 を参考のこと。最初にスペイン国王の称号を用いたのはカルロス1世 (自身はカスティーリャ、アラゴン 以下その他スペインの領邦の王であった)の息子であるフェリペ2世 である。それにも係わらず、カスティーリャ王国はスペイン連合王国内部で独自の権利を有し、それはスペイン継承戦争 後のボルボーン朝 まで続いた。
系図
脚注
^ フェルナンド3世以降はすべてのカスティーリャ王がレオン王を兼ねる。
^ アラゴン王としてはフェルナンド2世。
参考文献
Barton, Simon. The Aristocracy in Twelfth-Century León and Castile . Cambridge University Press, 1997. Appendix I: "The Counts of Twelfth Century León and Castile", pp. 235–302.
関連項目