フェルナンド1世 (カスティーリャ王)
フェルナンド1世(Fernando I, 1017年 - 1065年12月27日)は、カスティーリャ伯(在位:1035年 - 1037年)、後に初代カスティーリャ王(在位:1037年 - 1065年)、およびレオン王(在位:1037年 - 1065年)。1056年に「全ヒスパニアの皇帝」として戴冠した。「大王」(El Magno)と呼ばれる。 父はナバラ王サンチョ3世(大王)、母はカスティーリャ伯サンチョ・ガルシアの娘ムニア・エルビラ。アラゴン王ラミロ1世は異母兄、ナバラ王ガルシア3世(5世)は同母兄、ソブラルベ伯ゴンサロは同母弟。 生涯ナバラ王サンチョ3世の次男として生まれる。1035年に父が死去すると、遺領は4人の王子に分割相続され、フェルナンドはカスティーリャ伯領を獲得した。 1037年に妻サンチャの兄(または弟)で父にレオンを奪われたレオン王ベルムード3世は復権を狙ったが、フェルナンドは兄のナバラ王ガルシア3世から援助してもらい、タマロンの戦いでベルムード3世を討ち取りレオンを獲得、カスティーリャとレオンの王を称した。また、助けてもらったとはいえ兄とは衝突が絶えず、1054年のアタプエルカの戦いで両軍は決戦になり、ナバラ軍に勝利して兄を敗死させたフェルナンド1世はカスティーリャを優位に立たせた[1]。 それからはレコンキスタを進めたが、領土を征服しても入植する人数が足りないため、征服より小さく分裂したイスラム教諸国(タイファ)を臣従させ、パリア(貢納金)を取って保護する方を重視した。また、カスティーリャとレオンの結びつきが弱いため、外に目を向けて国内の統合を図る意図も含まれていた。 この方針で1055年から遠征を始め、イベリア半島南西部にあるバダホス王国を攻撃、ドゥエロ川沿岸の町ラメゴ(1057年)とヴィゼウ(1058年)を奪い取りバダホスの臣従・パリア支払いも取り付けた。また、トレド王国も1043年頃にパリア支払いを義務付けられていたが、滞納していたため周辺都市を侵略、1062年に改めて納付させた。サラゴサ王国、セビリア王国にも同様にパリアと臣従で屈服させ、1063年には異母兄のアラゴン王ラミロ1世の攻撃を受けたサラゴサの救援に長男サンチョ(後のサンチョ2世)とエル・シッドを派遣、ラミロ1世を戦死させた。同年、セビリアから聖イシドロの遺骸をレオンに持ち帰らせている[2]。 宗教政策にも取り組み、クリュニー修道院(クリュニー会)から修道士派遣を要請、領土の司教区を整備させキリスト教の浸透を図り、クリュニー修道院へ多額の献金を送った。王室とクリュニー修道院のこの関係は次の世代にも受け継がれていくことになる[3]。 1064年、コインブラを包囲・陥落させ臣従と並行してレコンキスタも前進させた。翌1065年にバレンシアへの遠征途中に病気にかかり、レオンへ戻り間もなく没した[4]。死後、遺言によって遺領は分割され、カスティーリャを長男サンチョ2世が、レオンを次男アルフォンソ6世が、ガリシアを三男ガルシア2世が、トーロとサモラを娘エルビラとウラカがそれぞれ相続した。 子女1033年、レオン王アルフォンソ5世の娘サンチャと結婚し[5]、以下の子女をもうけた。
脚注参考文献
関連項目
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