ミハル・ブジェジナ
ミハル・ブジェジナ(チェコ語: Michal Březina, 1990年3月30日 - )は、チェコ共和国の元フィギュアスケート選手(男子シングル)。2010年バンクーバー五輪、2014年ソチ五輪、2018年平昌五輪、2022年北京五輪チェコ代表。2009年世界ジュニア選手権2位、2013年ヨーロッパ選手権3位。 2022年2月8日に自身のインスタグラムにて引退を発表した。 テレビ放送、メディアでは「ミハル・ブレジナ」と表記される場合が多々ある。 妹も同じくフィギュアスケート選手のエリスカ・ブレジノワ。 人物1998年長野オリンピックのアイスホッケーを見てホッケー選手になりたいと思ったが、スケート選手であった父親の勧めでスケート技術を身に付けることから始めたところ、半年ほどでホッケーをやめてフィギュアスケートに集中するようになった。 12歳のときに3回転サルコウ、15歳のときには3回転アクセルに成功している。4回転はトウループとサルコウの2種類を成功させている。 目標とする選手は1984年サラエボオリンピック銅メダリストであるチェコのヨゼフ・サボフチク、カナダのジェフリー・バトルなど。妹のエリスカ・ブレジノワは同じくフィギュアスケート選手である。 趣味はサイクリング、水泳、コンピューター、サッカー、音楽、射撃など。好きなテレビ番組はユーロスポーツで、お気に入りの映画には『ロンゲスト・ヤード』、『グラディエーター』、『ラスト サムライ』などを挙げる[1]。 2015年5月18日、ペアスケーターのダニエル・モンタルバーノにプロポーズをし[2]、2017年6月11日、結婚。 経歴1990年3月30日チェコ共和国ブルノに生まれ、7歳でスケートを始める。 2007-2008シーズン、シニアクラスデビューとなるネーベルホルン杯で初優勝。その2週間後にはJGPブラオエン・シュベルター杯で2位となり、初のJGPメダルを獲得。欧州選手権では16位となる。しかし欧州選手権のオフアイス活動中に手首を負傷[3]、世界ジュニア選手権では手首を固定したまま出場し5位となった。 2008-2009シーズン、ジュニアグランプリ初戦のJGPクールシュヴェル杯と第2戦JGPメラーノ杯で連続優勝し、JGPファイナル出場を確実にした。ネーベルホルン杯では銀メダルを獲得。しかし11月に膝半月板損傷のため手術を余儀なくされ、12月のISUジュニアグランプリファイナルと三国選手権を棄権した。手術の4週間後には練習に復帰[4]、欧州選手権で10位、世界ジュニア選手権では銀メダルを獲得した。試合後の記者会見において、ブジェジナと優勝したアダム・リッポンは、お互いの存在があったからこそ頑張れた、お互いを引き上げ合う関係であるとコメントしている[5]。 シニア完全移行となった2009-2010シーズン、シーズン初戦のネーベルホルン杯で銅メダルを獲得し、これでネーベルホルン杯の金銀銅全ての色のメダルを揃えることになった。10月のフィンランディア杯では4位。翌月シニアグランプリシリーズ初出場となるNHK杯で銅メダルを獲得。会場は1998年長野オリンピックでチェコがロシアを破って金メダルを獲得したビッグハットだった。この大会は世界ランキングの上位選手が集まる大会だった[6] が、父親の言葉「誰だって誰にでも勝てる」という言葉を証明できた、と試合後のインタビューで語っている。[7] また、「ジェフリー・バトルも同じように日本で初めてメダルを獲ったんですね。彼と同じ道を歩けるのはうれしい」と雑誌のインタビュー[7] で語っている。この時日本のフィギュア人気に驚いたらしく、帰国後も時々この時のエピソードをメディアに語っている[8]。続くスケートカナダでは4位。12月のチェコ選手権で優勝、欧州選手権では4位となった。バンクーバーオリンピックでは10位、世界選手権に初出場して4位と健闘する。 シーズンオフの間にパスカーレ・カメレンゴにショートプログラムの振付を依頼。翌年の東京での世界選手権で滑るために日本の和太鼓『鼓童』を選択した[9]。カメレンゴ氏に振付を依頼した理由として高橋大輔の『道』が素晴らしかったからだと明かしている[10]。夏の練習は好調でショートとフリーの両方に4回転ジャンプを2本ずつ入れることを計画していた[10]。 2010-2011シーズン初戦のネーベルホルン杯の2週間前、練習中に4回転ジャンプで転倒して体を酷く捻り、足の血管を損傷[9]。後に鼠蹊部静脈瘤と診断されて手術することになるが、ネーベルホルン杯に出場して7位、招待されたジャパンオープンではコンビネーションジャンプを跳ぶことができず最下位。日本から帰国後手術し、アサインされていた中国杯とエリック・ボンパール杯を棄権。12月のチェコ選手権には復帰して2位となった。ヨーロッパ選手権ではショートプログラムで2位につけたが、フリーで崩れて8位。東日本大震災の影響で東京開催が中止され、モスクワで代替開催となった世界選手権のとき、日本支援を呼びかけるビデオに出演[11]、また、日本選手団がホテルに到着したときはロビーで出迎えた[12]。試合ではフリーで4回転トウループと4回転サルコウを自身初めて着氷し、総合で4位となった。 2011-2012シーズンはグランプリシリーズ大会3試合に出場できるという、世界選手権上位6人だけに与えられる権利を行使した。しかし希望していたNHK杯ではなく、スケートアメリカ、エリック・ボンパール杯、ロステレコム杯にアサインされ、日本のファンのために『鼓童』を日本で滑りたかったことを嘆いた[13]。夏の間は靴の問題に悩まされていた[13]。ネーベルホルン杯では2位。グランプリシリーズ初戦のスケートアメリカではシニアグランプリ初優勝を果たす。帰国後靴が壊れていたことがわかり靴を換えなければならなかった。[14] 続くエリック・ボンパール杯では3位となり、グランプリファイナル進出を決めた。また続く欧州選手権では4位に入った。4月にはコーチをヴィクトール・ペトレンコに変更し、拠点をアメリカのニュージャージーに移した[15]。 2012-2013シーズンは10月にジャパンオープンに招待されて来日し、エキシビションで『鼓童』を日本のファンの前で披露した。スケートアメリカ6位、ロステレコム杯3位。12月の三国選手権では高熱の為ショートプログラム後に棄権[16]。1月の欧州選手権ではシニアのISU選手権大会での初のメダルとなる銅メダルを獲得。なお、この大会の公式練習初日に左肩を脱臼するというアクシデントがあった[17]。3月の世界選手権は10位。 2013-2014シーズン、欧州選手権では3度目の4位。ソチオリンピックは前回のバンクーバーと同じ10位だった。世界選手権はSPで3つ全てのジャンプで失敗し23位。2回転フリップの転倒時に右足首を負傷したため棄権した。シーズン終了後、コーチを以前のカレル・ファイフルに戻し、拠点もドイツのオーベルストドルフに変更した[18]。 2014-2015シーズン、ロステレコム杯で銅メダルを獲得。新設されたチャレンジャーシリーズには2戦出場。ともに2位であったが獲得スコアで1位となり、シリーズの最高成績者となった。
2022年2月8日、自身のインスタグラムにて競技からの引退を発表。コーチ、家族等周りの人への感謝を述べた[19]。 表記原語の発音により近いのはブ「ジェ」ジナであるが、日本語ではミハル・ブレジナないしミカル・ブレジナと書かれることが多い。これは、国際スケート連盟の公用言語が英語であり、Březinaのハーチェクを省略しBrezinaと書かれる場合があるため、その英語発音がカタカナに転写されたことによる(参照:ドヴォジャーク(Dvořák))。なおřの音はチェコ語では最も難しい発音である。 主な戦績2009-2010シーズンから
2008-2009シーズンまで
詳細
プログラム使用曲
脚注注釈
出典
外部リンク
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