ボビー・ボニーヤ
ロベルト・マーティン・アントニオ・ボニーヤ(Roberto Martin Antonio "Bobby" Bonilla , 1963年2月23日 - )は、アメリカ合衆国・ニューヨーク州ニューヨーク・ブロンクス区出身の元プロ野球選手。(外野手または三塁手、一塁手)。右投両打。 主に1980年代後半から1990年代にかけて活躍した。先祖はプエルトリコ人。 来歴プロ入りからパイレーツ時代まで1981年のMLBドラフトでは指名されず、同年にドラフト外でピッツバーグ・パイレーツに入団。 1985年のシーズンオフに行われたルール・ファイブ・ドラフトでシカゴ・ホワイトソックスに移籍し[1]、1986年4月9日にシカゴ・ホワイトソックスでメジャーデビューを果たしたが、7月に交換トレードでパイレーツに復帰。両球団合計で138試合に出場するが、打率.256、3本塁打と目立った活躍はなかった。当時パイレーツは下位を低迷。財政難もあって高給取りのベテランを放出していた。名将ジム・リーランド[2]を迎え、チームの若返りを図り、当時23歳のボニーヤもそれにマッチすることとなる。 1987年、主に三塁手として起用されたボニーヤは打率.300、15本塁打、77打点と活躍。1988年には159試合で打率.274、24本塁打、100打点の活躍でチームの2位浮上に貢献。また、この年初のオールスター出場を果たした。1990年には外野(ライト)に転向し、レフトのバリー・ボンズ、センターのアンディ・バンスライクとともにナショナルリーグ屈指の外野トリオを形成し、チームは1990年、1991年に2年連続地区優勝を果たす。特に1990年には32本塁打、120打点を記録し、MVPに選ばれたボンズに引けを取らない大活躍をした。1991年も本塁打こそ18本に終わったが100打点を記録した。 しかし、もともと財政難のチームでは年俸が高騰した選手を抱えきれず、ボニーヤもフリーエージェント(FA)となった。ボニーヤの放出後、パイレーツは1992年にもナ・リーグ東地区(当時)優勝(3連覇)を果たすが、全て西地区優勝チームにプレイオフで敗れ、ワールドシリーズ進出はならなかった。また、1993年以降はプレーオフはおろか、勝率5割からも遠ざかり、2012年までアメリカプロスポーツ史上初となる20年連続シーズン負け越しを記録した。 メッツ時代以後1991年12月に当時メジャー最高額となる5年総額2900万ドルでニューヨーク・メッツに移籍[3]。メッツは同時期にエディ・マレー、ビンス・コールマン、ブレット・セイバーヘイゲン(交換トレードでの獲得)とも高額契約を結ぶ。中でもマレー、ボニーヤ、ハワード・ジョンソンの三人のスイッチヒッターでクリーンナップを固めるという構想であったが、これらはメッツにとっても、またボニーヤにとっても転落の始まりであった。 1991年の5位(6チーム中)からの巻き返しを図ったメッツであったが、1992年は変わらず5位に終わり、7チームとなった1993年には新球団フロリダ・マーリンズよりも下の最下位に終わった。東中西三地区に再編され、232日間に及ぶ長期ストライキのためシーズンが途中で終わった1994年こそ5チーム中3位であったが、ペイロール(年俸総額)の高い割には良い成績とは言えなかった。ボニーヤも地元記者とのトラブルもあり、成績は奮わず、1995年終盤にボルチモア・オリオールズに放出された。 この1995年は28本塁打、99打点。翌1996年にも28本塁打、116打点の活躍を見せ、1997年にはかつての恩師・リーランド率いるマーリンズに移籍した。 球団創設5年目のマーリンズはこの年、初のワールドシリーズ進出を果たし、クリーブランド・インディアンスを破って初の栄冠に輝いた。ボニーヤもこの年17本塁打、96打点と活躍を見せ、ワールドチャンピオンの栄誉に輝いた。しかし、マーリンズもまた深刻な財政難のため、栄冠に貢献した選手を抱えることができず、ボニーヤも翌1998年にマイク・ピアッツァらとのトレードでロサンゼルス・ドジャースに移籍(ピアッツァもすぐのちにメッツに移籍)。この年の不振もあって、1999年にはメッツに放出された。 1999年にメッツはワイルドカードでプレーオフ進出を果たし、ワールドシリーズ進出を賭けてアトランタ・ブレーブスと対戦するが敗北。そのシリーズの第6戦で、途中交代したボニーヤはチームメイトのリッキー・ヘンダーソンとロッカーでトランプに興じたため、メッツを解雇された(一方のヘンダーソンにはお咎めなしであったが、ヘンダーソンも翌2000年途中にシアトル・マリナーズに放出された)。メッツとの間には契約が残っていたが、残りの590万ドルを2011年以後に支払うことで合意し、これによってボニーヤは2011年から2035年までの間に、利息を含む約3,000万ドル(正確には2,983万1,205ドル)の25分の1を毎年7月1日に手にすることとなる[4]。 2000年はそのブレーブスと契約するが、不振のため1年で解雇され、セントルイス・カージナルスでプレーした2001年を最後に引退している。 詳細情報年度別打撃成績
受賞歴・記録
脚注
関連項目外部リンク |
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