モーガン・エンスバーグ
モーガン・ポール・エンスバーグ(Morgan Paul Ensberg, 1975年8月26日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡ハモサビーチ出身の元プロ野球選手(三塁手)。右投右打。 経歴
プロ入り前1994年のMLBドラフト61巡目(全体1534位)でシアトル・マリナーズから指名されるが、入団契約を交わさずに南カリフォルニア大学へ進学した。 現役時代1998年のMLBドラフト9巡目(全体272位)でヒューストン・アストロズから指名されプロ入り。ちなみに後にチームメイトになるジェイソン・レーンとは、南カリフォルニア大学時代にもチームメイトだった。2000年9月にメジャーデビューを果たす。翌2001年はメジャーでの出場がなかったが、2002年には49試合に出場、2003年には三塁のレギュラーに定着した。 2005年は、前年オフにカルロス・ベルトランやジェフ・ケントがFA移籍し、主砲ジェフ・バグウェルとランス・バークマンが故障で長期欠場を強いられていったため、この年のアストロズはナショナルリーグ11位の693得点と得点力不足に泣かされていた。開幕当初の33試合で4本塁打と低調だったものの、5月11日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で1試合3本塁打を放ち、そこからコンスタントに打ち続けた。オールスターの時点で24本塁打を放ち、攻守でチームを牽引。9月に右手に死球を受けた影響で、終盤戦は調子が下がったものの、シーズントータルでは自己最多の36本塁打、101打点を記録しシルバースラッガー賞を受賞。その活躍ぶりが評価され、同年のオールスターにも初めて選出され、MVP投票でも4位になった。また、この年の36本塁打&101打点は、球団の三塁手記録となった。ちなみに、この年、1試合(2イニング)だけメジャー昇格後初となる遊撃手としてプレーした。そして、同年オフに1年380万ドルで契約延長。 2006年は、5月終了時点で17本塁打、36打点、40四球を選び、4割近い出塁率をキープする順調な滑り出しを見せた。しかし、6月に三塁守備の際に右肩を負傷してから打撃不振に陥り、7月には状態が悪化したために約3週間ほどDL入りを余儀なくされた。復帰後も復調せず、4本塁打、14打点と低調だったため、戦線離脱中にタンパベイ・デビルレイズからトレードで加入し、三塁手として穴を埋めていたオーブリー・ハフや内野のユーティリティのマイク・ラムと併用されるようになった。結局、2年連続20本塁打以上となる23本塁打を放ち、出塁率.396と高い数字を残したものの、打率は.235と前年から約5分下がり、打点は58と前年から半減した。 2007年も開幕から大不振で、打率自体はそれほど変わらなかったものの、長打が減り、四球も大幅に減ったため、出塁率も大幅に下がった。そのため、アストロズは同年7月28日、同じく不振だったダン・ウィーラーとのトレードで、三塁手のタイ・ウィギントンを獲得。このため、ポジションを追われる形となり、わずか3日後の同年7月31日にサンディエゴ・パドレスへトレード移籍。移籍後、最初のホーム6試合で3本塁打を放ち、復調したかに思われたが、結局、若手のケビン・クーズマノフに追いやられる形となり、シーズン終盤は代打としてプレーした。また、パドレス移籍後、メジャーに昇格して初めて一塁手としてプレーした。 2008年1月31日にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約。その際、1990年代後半の黄金期を支えたポール・オニールが背負い、引退後は半ば永久欠扱いとなっていた番背番号「21」を打診されたがこれを断って「11」を付けた。開幕メジャー入りを果たしたが、打率.235、1本塁打、4打点と結果を残せず、6月1日に戦力外となった。 2009年2月9日にタンパベイ・レイズとマイナー契約を結んだ。しかし、開幕前に自由契約となり、引退した。 引退後2013年には、古巣アストロズの傘下のA+級ランカスター・ジェットホークスの育成コーチに就任した。 2014年からは、アストロズの特別補佐コーチに就任した[1]。 2019年にレイズ傘下AA級モンゴメリー・ビスケッツの監督に就任し、2023年まで務めた。 2024年からはレイズ傘下AAA級ダーラム・ブルズの監督を務める[2]。 選手としての特徴打撃面は選球眼のよさとパンチ力が持ち味。 ポジションは三塁手で、他に一塁手、遊撃手としてのプレー経験がある。 詳細情報年度別打撃成績
表彰
記録
背番号
脚注
関連項目外部リンク |