フランソワ・キャスタン
フランソワ・キャスタン(François J. Castaing、1945年3月18日[1] - 2023年7月27日)は、フランス出身の自動車技術者である。ルノー、アメリカン・モーターズ(AMC)、クライスラーで要職を務めた。 概要ルノー、ゴルディーニ、アルピーヌが合併した頃の同社の技術部門の責任者で、専門分野はエンジン。同社の1970年代のル・マン24時間レース参戦(1978年に総合優勝)や、フォーミュラ2(F2)、フォーミュラ1(F1)への参戦でもその活動の中核を担った。(→#ゴルディーニ - ルノー) 1979年にルノーが米国のアメリカン・モーターズ(AMC)を傘下にした際に米国に移り、以降はAMC、クライスラー(1987年にAMCを買収)で技術部門の重役を務めて活躍した[1]。(→#AMC - クライスラー) 経歴ゴルディーニ - ルノーキャスタンは、フランス国立高等工芸学校(パリ工科大学)で工学を修めた[1]。その学生時代の卒業論文のテーマを自動車としたことで担当教授からアメデ・ゴルディーニを紹介され[2]、学生最後の年はゴルディーニに通い、この際、アメデからも意欲を見込まれ[注釈 2]、卒業後の1968年7月から同社に雇われた[2][1]。 ゴルディーニに正式に雇われて最初の仕事は同年9月のル・マン24時間レース[注釈 3]への参加で[2][1]、この時からモータースポーツに関わり始め、ほどなく同社において頭角を現していった[3]。 その後、兵役のために一時的にゴルディーニを離れ、1970年春にキャスタンが戻ってきた時には同社はルノーに吸収合併されていた。 1972年、フランスの石油会社エルフは、当時開催されていたヨーロッパ・スポーツカー選手権に参戦するため、ルノーに資金提供して新型エンジンを開発を依頼した[4]。実際の開発を任されたキャスタンは、2リッター規定で争われる同選手権の規定に合わせ、2リッターの自然吸気V6エンジン「ルノー・ゴルディーニ・CH1」を設計した[5][4][6]。このエンジンは、その後の1970年代から1980年代前半にかけてのルノー製レーシングエンジンの基礎となり、ルノーのモータースポーツ活動の歴史において非常に重要なものとなる[注釈 4]。 テクニカルディレクタールノー・アルピーヌ・A442B(1978年ル・マン24時間レース・総合優勝車) ルノー・RS01(1977年・F1) 1973年にルノーはアルピーヌを吸収し、1960年代から関係の深かったルノー、ゴルディーニ、アルピーヌの3社はひとつとなった。この時期にアメデ・ゴルディーニは引退し、キャスタンはその職を引き継ぎ、ルノーのレース部門の技術面を統括する立場であるテクニカルディレクターとなった[4][1]。ルノーはレース部門全体の統括はジェラール・ラルースに委ね、ラルースの主導で1976年にルノー・スポールが設立された[4]。 そうして、ラルースとキャスタンが主導する体制の下、ルノー・スポールは1977年からF1への参戦を始めた(詳細は「ルノーF1」を参照)。当時の開発部門において、キャスタンがかつて設計したCH1をベースとして、ジャン=ピエール・ブーディとベルナール・デュドが、ターボチャージャーを搭載したエンジンの開発に熱心に取り組んだ。そして、以前から参戦していたル・マン24時間レースにおいて、1978年のレースでルノーは初の総合優勝を収め、以降はF1に注力するようになったことで[注釈 5]、1979年フランスグランプリで、ルノーはF1初優勝を果たした。 この時期、キャスタンは、ルノー・スポールのような技術的に複雑な組織を率いるのはドライバー出身のラルースより自分のほうがふさわしいと主張した[8]。キャスタンが仕掛けたこの内紛に対してルノー本社のモータースポーツ担当幹部であるベルナール・アノンが仲裁に動き、アノンはラルースに続投させることを決めた[8]。 AMC - クライスラー![]() 1980年、上述の内紛で敗れたキャスタンはルノー資本となったアメリカン・モーターズ(AMC)の製品開発および開発担当の副社長に任命され[8][1]、翌年に家族とともに米国のミシガン州デトロイトに移住した。 AMCでは、ジープ・チェロキー(XJ)の開発が特に知られる[1]。この際、キャスタンは同社でそれまで行われていた慣行を改め、商品ライフサイクルマネジメント(PLM)を導入した。同時に、CADの導入のように、開発現場の効率化にも取り組んだ。 1987年、AMCはクライスラーに買収されたが、キャスタンは同社に留まり、設計部門の責任者となった[1]。そうして、それまでキャスタンがAMCで導入していた手法は、当時のクライスラーよりも進んでいたため、クライスラー全体で採用された。 クライスラーによる買収後、ジープ・チェロスキーはクライスラー全体の利益の1/3を稼ぎ出すほどの人気車となり、キャスタンを含むAMC出身者はクライスラーでも出世し、キャスタンもクライスラーにおけるエンジニアリング担当の副社長に任命された[1]。 クライスラー副社長時代バイパー(初代) バイパーのV10エンジン クライスラーの社長であるボブ・ラッツは、AMC流の開発手法を支持したことから、キャスタンとの間には協力関係が築かれた。 ラッツの支持の下、キャスタンはそれまでルノー由来の車体で製造されていたイーグル・プレミア(AMC・イーグル)の設計を破棄することにし、新たな車体プラットフォーム(車台)を導入することにした。そうして開発されたのが、クライスラー・LHプラットフォームである[1]。 プレミアをベースに考案されたこのプラットフォームは、ダッジ・イントレピッド(初代)、クライスラー・コンコード(初代)、クライスラー・LHS(初代)、クライスラー・ニューヨーカー(11代目)といった様々な車両に使用され、これらは1990年代前半にクライスラーに大きな利益をもたらした。 バイパー(初代)もキャスタンが開発を指揮していた時期に導入された[1]。同車を開発するに当たり、ラッツとキャスタンは50名から成る「ダッジ・バイパーチーム」を組織し、キャスタン自身が「非合理的なもの(Unreasonable)」と認め、大企業的な手続きへの「反乱(Rebellion)」とも呼んだ同車の開発を推進した[1][9]。キャスタンは特に同車のV10エンジンの開発にも不可欠な存在だったと言われている[10]。
1996年にキャスタンはクライスラーの上級副社長となった[1]。その後、1998年にクライスラーがダイムラー・ベンツと合併してダイムラークライスラーとなると、同社の共同CEO(クライスラー出身)であるロバート・イートンの技術アドバイザーを任され、2000年に同社を去るまでその職を務めた[1]。 2023年7月27日に死去した。78歳没[11]。 栄典脚注注釈
出典
参考資料
外部リンク
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