ピーター・ウタカ
ピーター・ウタカ(Peter Utaka)ことピーター・マドゥアブチ・ウタカ(英: Peter Maduabuci Utaka、1984年2月12日 - )は、ナイジェリア・エヌグ州エヌグ出身のプロサッカー選手。Jリーグ・栃木シティFC所属。ポジションはフォワード(FW)。元ナイジェリア代表。 2007-08シーズンのベルギー2部リーグ得点王(22得点)。2009-10シーズンのデンマーク1部リーグ得点王(18得点)。2016年のJ1リーグ得点王(19得点)および2020年のJ2リーグ得点王(22得点)。 クラブ経歴プロ入り1984年にナイジェリア・エヌグで生まれたウタカは、1997年に地元の大学病院・UNTHナイジェリア(University of Nigeria Teaching Hospital)でキャリアを始めた[1]。兄のジョン・ウタカと共にプレーすることになるが、程なくして兄がエジプトのアラブ・コントラクターズSCと契約すると、その後を追うように同じ町を拠点とするアル・イスマイリーSCのトライアルに参加[2]。その後、ヨーロッパでプレーしたい想いから、兄と兄の代理人の助けを借り、1999年の16歳の時にクロアチアのNKディナモ・ザグレブの下部組織に入団。ディナモでは、後にクロアチア代表でプレーすることになるエドゥアルドとクラブが提供するアパートで共に生活をしたことから親交を結び、エドゥアルドがアーセナルFCへ移籍してからも連絡を取る仲になった[3]。それから1年後に古巣へ戻り2003年まで在籍した[2]。 ベルギー時代2003年にベルギー・セカンドディビジョンのパトロ・アイスデン・マースメヘレンと契約。マースメヘレンでの活躍が認められ、1部のKVCウェステルローに引き抜かれた。2007年1月に2部のロイヤル・アントワープFCに加入するとすぐさま主力となり、翌シーズンは22得点で得点王となる活躍を見せ、チームをプレーオフ圏内の2位へ導いた。 デンマーク時代2008年8月30日、デンマークのオーデンセBKに移籍[4]。1年目で得点ランク4位タイとなる12得点を挙げ、2年目は33試合18得点で得点王に輝いた[5]。また、オーデンセの選手としては2004-05シーズンに20得点を挙げたステフン・ホイヤー以来の得点王となった。 中国時代2012年1月、中国の大連阿爾濱に移籍。 ハイペースで得点を重ね14節から23節までの10試合で12得点を記録する爆発力をみせた。最終的にチーム得点王となる20得点を挙げる。 2013年もゴールを量産すると同7月には同じく中国の北京国安に完全移籍。この際の移籍金は4億7000万円で、中国リーグ間での移籍金としては史上最高額となった。 しかし2014年は前年までの得点力が影を潜め、同7月に上海申鑫にレンタル移籍となるが、上海でも復調せず同シーズン計25試合で3得点と中国移籍後もっとも低調な年となった。 清水エスパルス2015年2月、清水エスパルスへ完全移籍[6]。4月15日、第5節のガンバ大阪戦でJリーグ初ゴールを決めるなど[7][8]、攻撃の軸として28試合で9得点を記録したが[7]、チームはJ2降格を喫した。 サンフレッチェ広島2016年、サンフレッチェ広島へ期限付き移籍。移籍当初はシャドーのポジションでプレーしていたが、佐藤寿人から1トップのレギュラーの座を奪うと得点を量産してリーグ最速の10点を決め、19得点でヴィッセル神戸のレアンドロと共にJ1得点王に輝いた。なお、ベストイレブンには選出されなかった。得点王を獲得しながらも、ベストイレブンに選出されなかったのは、Jリーグでは1994年シーズンのジェフ市原のフランク・オルデネビッツ以来、2人目である。 FC東京2017年は得点王を獲得したことで年俸が高騰し、年齢が高いこともあって広島・清水両クラブとも契約更新が難航しており[9]、最終的に所有権を広島に移した上でFC東京に期限付き移籍することとなった[10]。2017年3月15日、ルヴァンカップ第1節のベガルタ仙台戦では移籍後初の途中出場から、PKを含む1得点1アシストの活躍をみせた。3月18日、4節の川崎フロンターレ戦では途中出場から1得点1アシストの活躍でリーグ戦デビューを飾り、2点にからむ活躍を見せた。12月5日、FC東京との期限付き移籍期間が満了[11]。12月30日、広島との来季の契約を結ばないことが発表された[12]。 ヴェイレBK2018年2月、デンマーク2部のヴェイレBKと2018年夏までの契約を結んだ[13]。だが6試合無得点と結果を残せず、シーズン終了後に退団した[14]。 Jリーグ復帰2018年6月、徳島ヴォルティスへの完全移籍が発表された[15]。半年間で18試合に出場、6ゴールを記録した[7]。 2018年12月、ヴァンフォーレ甲府への完全移籍が発表された[16]。2019年シーズンは40試合に出場、20ゴールを記録した[7]。 2019年12月23日、京都サンガF.C.に完全移籍により加入すると発表された[17]。第2節のジュビロ磐田戦で移籍後初ゴールを含め2ゴールを決めると、第10節のモンテディオ山形戦では一人で4ゴールを決め(日本でのプレーでは初のハットトリック)、4-3での勝利に貢献した[18]。2020年シーズンは22得点を決め、J2リーグ得点王のタイトルを獲得した。 2021年シーズンもレギュラーとして40試合に出場し、21得点を決めて京都の12年ぶりのJ1昇格に貢献。また、リーグ戦21得点はルキアンに1得点差で敗れるも得点ランキング2位の成績であった[19]。 2022年シーズンは9試合終了時点で得点ランキング首位の7得点を奪いシーズン前半のチームの躍進に貢献、後半は失速したが、9得点2アシストを記録[20]。J1昇格プレーオフでは相手のゴール前での決定的なシュートを顔面で防いで、京都のJ1残留に貢献した。 2022年12月30日、甲府に4シーズンぶりに復帰することが発表された[21]。背番号は、2023年シーズンより規定が変更され、新たに52から99までの背番号を自由に選べるようになった[22] ため、かつて使用していた背番号「9」を重ねた「99」を選択した。富士フイルムスーパーカップ2023にて復帰後初出場を飾ると、同試合の44分には前年度のJ1王者横浜F・マリノスから同点ゴールを挙げるなどと活躍を見せた。同年のAFCチャンピオンズリーググループステージ最終節のブリーラムとの対戦で2得点を決め、チームの決勝トーナメント進出に貢献した[23]。 2024年11月15日、甲府と契約満了となったことが発表された[24]。 2025年3月27日、J3 栃木シティFCへの加入が発表された[25]。背番号は90番。 代表経歴2009年9月21日、2010 FIFAワールドカップ・アフリカ予選のモザンビーク戦に向けてシェイブ・アモドゥ監督に初招集されるも出番はなかった[26]。2010年3月3日のコンゴ民主共和国戦でラーシュ・ラーゲルベック監督の下ナイジェリア代表デビュー。ナイジェリア代表初得点となる先制点を挙げ5-2の勝利に貢献した[27]。また、この試合前にナイジェリアサッカー協会はウタカと連絡がつかなかったため、ウタカの母親に連絡をし招集の件を伝えてもらった[28]。 2010年5月、2010 FIFAワールドカップに向け暫定30人のメンバーに兄と共にリスト入りしたが[29]、本大会のメンバーには兄だけが選ばれたため兄弟一緒にプレーすることは叶わなかった。 人物
個人成績
その他の公式戦
代表歴試合数
タイトルチーム
個人
脚注
関連項目
外部リンク
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