ビギニングス (アンブローズ・スレイドのアルバム)
『ビギニングス』(Beginnings)は、イギリスのロックバンド、アンブローズ・スレイドの1作目のスタジオ・アルバムで、スレイドの事実上のデビュー・アルバム。1969年5月9日にフォンタナ・レコードより発売されたが、全英アルバムチャートにランクインすることはなかった。 アメリカでは、『Ballzy』というタイトルで発売された。1975年後半にコントア・レコードから「Beginnings of Slade」というタイトルに改題されて再発売されたが、権利上の問題によりすぐに回収された。 本作は、自作の楽曲とステッペンウルフなど他のアーティストの楽曲のカバーバージョンが収録されている。 アルバムのアートワークには、ウォルソールのプークヒルで撮影された写真が使用された[2]。 背景・リリーススレイドは、1966年にイン・ビトゥイーンズ(英語: The N' Betweens)という名前で結成された。 バンドは、シングルのレコーディングや、イギリスでのライブで評判を集めることに集中していた。1969年2月にフィリップス・レコードのA&Rの責任者であるジャック・ババーストック (Jack Baverstock) は、1968年にプロデューサーのマーティン・アーヴィングとのセッションで録音された2曲のデモ音源を聞いた後、バンドとの契約に興味を示した[3]。バンドは契約に同意し、バンド名をババーストックが提案したアンブローズ・スレイド(英語: Ambrose Slade)に改名した。アンブローズ・スレイドという名前は、ハンドバッグをAmbrose、靴をSladeと名付けていたババーストックの秘書に触発されて名付けられた[2][4]。ババーストックは、間もなくしてエージェントとしてジョン・ガネルを雇用した。 バンドは、1週間にわたってエンジニアのロジャー・ウェイクと共に、フィリップス・スタジオで『ビギニングス』のレコーディングを行った。 ババーストックは「マッド・ドッグ・コール」のデモ音源を気に入ったため、バンドに対して自作曲をより多く書くことを主張した。それから数日のうちに、自作曲の「ローチ・ダディ」、「ピティ・ザ・マザー」、「ジェネシス」の3曲を書いた。しかし、制作された自作曲の数はアルバムには足りず、残り8曲はバンドが定期的にライブで演奏していた8曲のカバーが収録された。 アルバムのレコーディング中に、アンブローズ・スレイドは、スタジオを訪れたチャス・チャンドラーを紹介された。スタジオで演奏を聴いたチャンドラーは、翌日の夜にラスプーチンのクラブで開催されたバンドのライブを見て、バンドのマネージャーになることを決心し、バンドと契約を結んだ[2][4]。 1969年5月に、シングル盤『ジェネシス』と共に『ビギニングス』が発売され、ロンドンのユーストン駅でプロモーション・ビデオの撮影も行ったが、いずれもチャートインすることはなかった。バンドとチャンドラーは、チャートインすることを目標に、次の戦略を練ることにした。チャンドラーは本作の仕上がりに満足しておらず、自作曲を増やしてバンドのイメージを変えることがバンドの成功に繋がると考えた。 バンドは、チャンドラーがポリドール・レコードと契約するまで、フォンタナ・レコードから2作のシングルを発売し、その後1971年にブレイクした[2][4]。 収録曲
再発盤『Beginnings of Slade』収録曲
曲の解説「ジェネシス」は、メンバー全員で書いた自作のインストゥルメンタル 。後に歌詞が加えられたものが1970年に発売されたアルバム『プレイ・イット・ラウド』に「ノウ・フー・ユー・アー」というタイトルで収録された。 「エブリバディズ・ネクスト・ワン」は、1968年に発売されたステッペンウルフの楽曲のカバー。 「ノッキング・ネイルズ・イントゥ・マイ・ハウス」は、1968年に発売されたアイドル・レースの楽曲のカバー。 「ローチ・ダディ」もメンバー全員で書いた楽曲で、アルバム発売直後に発売されたシングル盤『ジェネシス』のB面にも収録された。 「エイント・ガット・ノー・ハート」は、1966年に発売されたマザーズ・オブ・インヴェンションの楽曲のカバー。 「ピティ・ザ・マザー」は、初めてホルダーとリーの2人で書かれた楽曲で、以後スレイドの多くの楽曲はこの2人によって書かれている。 この楽曲では、リーが演奏するエレクトリック・ヴァイオリンがフィーチャーされている。1980年にリーは「レコーディングの前日にノディの実家のキッチンで書いた。ルイーズ(リーの妻)が僕とノディが曲を書くのを手伝ってくれた。」と振り返っている。 「マッド・ドッグ・コール」は、「ジェネシス」と同様に自作のインストゥルメンタルで、制作時には「My Cat's Got Fleas」というタイトルが付けられていた。 「フライ・ミー・ハイ」は、1967年に発売されたムーディー・ブルースの楽曲のカバー。 「イフ・ジス・ワールド・ワー・マイン・ディド」は、1967年に発売されたマーヴィン・ゲイとタミー・テレルのデュエット曲のカバー。 「マーサ・マイ・ディア」は、1968年に発売されたビートルズの楽曲のカバーで、リーはヴァイオリンを演奏。1969年にシングル盤『ワイルド・ウィンズ・アー・ブローイング』のプロモーションで出演したBBCの子供向け番組『Monster Music Mash』でこの曲を演奏した[6]。 「ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」は、ステッペンウルフの楽曲のカバーで、 1972年に発売されたライブ・アルバム『Slade Alive』にライブ音源が収録された。 「ジャーニー・トゥ・ザ・センター・オブ・ザ・マインド」は、1968年に発売されたアンボイ・デュークスの楽曲のカバー。 クレジット
脚注出典
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