バートン・フィンク
『バートン・フィンク』(原題: Barton Fink)は、1991年のアメリカ映画。コーエン兄弟製作。出演はジョン・タトゥーロ、ジョン・グッドマン。 ストーリー1941年、ブロードウェイで高い評価を受けた新進気鋭の劇作家バートン・フィンクは、ハリウッドの大手映画プロダクション“キャピタル・ピクチャーズ”から専属契約のオファーを受ける。 バートンはハリウッドを訪れ、“Hotel Earle”に宿泊する。バートンの部屋は異様に蒸し暑く、壁紙は剥がれかけ、砂漠気候で乾燥した地域にも関わらず、部屋にはなぜか蚊が飛び回る劣悪な環境だった。 翌日バートンがプロダクションを訪ねると、ルイス・B・メイヤーそっくりの巨漢の社長・リプニックから、早口で捲し立てられ、サタデー・イブニング・ポストから買い付けたウォーレス・ビアリー主演のレスリング映画のシナリオを依頼される。映画に詳しくないバートンは、特に得意ジャンルもないため、言われるがままその依頼を引き受け、社長から週末までに進捗を聞かせてほしいと告げられる。 その夜からバートンは、ホテルで脚本の執筆に取掛かるが、部屋の壁が異様に薄いため、隣の部屋から女性の喘ぎ声や男の不気味な笑い声が聞こえてきて集中できない。フロントにクレームをつけるが、フロントはそのまま隣室の男に伝えたため、男は怒ってバートンの部屋に乗り込んでくる。男はチャーリー・メドウズと名乗る、保険のセールスマンであった。会話を交わすうち、なぜかバートンはチャーリーと意気投合する。 翌日、リプニックに紹介されたがさつなプロデューサーに会いに行き、カフェで朝食を摂りながらアドバイスを乞うが、プロレス映画ごときに何の助言がいるのかと突っぱねられる。その後カフェのトイレで、昼間から酔って激しく嘔吐する老人を見かける。それは偶然にも、著名な小説家でハリウッドの脚本家でもあるW・P・メイヒューであった。 バートンは脚本のアドバイスを乞うため、後日メイヒューと会食する。しかしアル中のメイヒューは、バートンに酒の飲み過ぎを指摘されて口論となり、秘書のオードリーに暴言を吐いて去っていく。 その後も、チャーリーに励まされながらもバートンの脚本は一向に進まない。とうとう週末になり、追い詰められたバートンはオードリーに助けを求める。しばらくして部屋を訪れたオードリーに、バートンはなぜか誘惑され、そのままベッドを共にする。 翌朝目を覚ますと、隣で寝ていたオードリーの体から大量の血が流れ、バートンは絶叫する。取り乱したバートンはチャーリーに助けを求め、チャーリーは驚きつつも、死体をどこかに片付ける。茫然自失のバートンは、結局何のアイデアも持たぬままリプニックの邸宅を訪ねるが、完成前のシナリオの中身を途中で打ち明けるのは不都合云々と伝え、その場は何とかやり過ごす。 ホテルに戻ると、チャーリーは旅支度を整え、ニューヨークに発とうとしていた。死体の事は忘れて脚本に集中するよう励まされ、帰ってくるまで預かっていてほしいと、小包みを渡される。チャーリーが部屋を出たのち、引き出しに入っていたギデオンの聖書を手にしたバートンは、突然ひらめき、ストーリーを書き始める。 次の日、ホテルに二人の刑事が現れ、バートンは取調べを受ける。隣室のチャーリーが実は、カール・ムントという指名手配中の連続殺人犯であることを聞かされる。ムントは被害者をショットガンで射ち殺して首を切断する癖があり、カンザスで数人の主婦を惨殺、数日前には近くの耳鼻科医、昨日は白人女性が、同じ手口(M.O.)で殺害され、ホテルの近くで遺体が見つかったという。 刑事が去ったあと、バートンは一気にストーリーを書き上げ、脚本“The Burlyman(大男)”を完成させる。脚本の完成に歓喜した彼は、米軍慰問イベントの会場に紛れ、踊り明かし、米兵と揉めて殴られる。 ホテルに戻ると、部屋には先の二人の刑事が待ち構えていた。刑事から手渡されたその日の朝刊には、今度はメイヒューの惨殺死体が見つかったという一面記事が載っていた。刑事に血まみれのベッドを見られたバートンは、手錠を掛けられ、チャーリーの行方を問い詰められる。するとそこへチャーリーが現れ、二人の刑事をショットガンで射殺する。チャーリーは手錠の掛けられたベッドのフレームを怪力で破壊し、バートンを逃がすと、炎に覆われた自分の部屋に戻っていく。バートンは小包みと脚本だけ手にし、ホテルを脱出する。 バートンはニューヨークの伯父の家に電話を掛けるが、すでにチャーリーに殺害されていた。 翌日バートンがプロダクションを訪れると、太平洋戦争の開戦により、リプニックは陸軍予備役大佐に任命され、軍服を纏っていた。彼はバートンの脚本を採用却下する。プロレス映画なのにアクションもドラマもレスリングすらも無く、己の魂との闘争を描いた自己満足の気取ったシナリオを酷評する。プロデューサーのガイスラーは解雇し、バートンには契約中は町から出ないよう命令し、何を書いても一切採用しないと激怒する。 途方に暮れたバートンは、小包みを持って砂浜にやってくる。座って海を眺めていると、水着を着た女が現れ、浜辺に座り込む。それは、ホテルの絵と全く同じ光景だった。 キャスト※()内は吹替キャスト。左側がVHS版(日本コロムビア)、右側がDVD版(ユニバーサル・ピクチャーズ)。
公開映画は1991年8月21日に北米で公開され、約600万ドルの興行収入を挙げた[1]。然しながら、興行的には『ミラーズ・クロッシング』に引き続き赤字となった。 評価1991年度のカンヌ国際映画祭でパルム・ドール、監督賞、男優賞を受賞した。同年度のアカデミー賞では助演男優賞、美術賞、衣装デザイン賞の3部門で候補になったが、受賞には至らなかった。カンヌでは上述のように主要3部門を制覇したが、これは映画祭の歴史上初めてのことである。カンヌ国際映画祭は伝統的に一つの映画に対し複数の賞を与えないようにしていたが、これ以降その規定がはっきりと明文化されることになった。本作は公開後批評家たちから絶賛された。観る者によって様々な深読みが可能な作品であり、多くの批評家たちが彼ら独自の観点からこの映画を語っている。著名な映画評論家であるロジャー・イーバートは、映画の美術デザインや主演のジョン・タトゥーロの演技を賞賛したものの、カンヌ国際映画祭で賞を総なめにしたことについては懐疑的な評価を下した。同時に彼は若干躊躇しながらも、1930年代から40年代にかけてのファシズムの台頭が、映画の重要な主題の一つとなっている可能性を示唆した[2]。ワシントン・ポストの批評家リタ・ケンプリーは、本作品をその年で最高の映画の一つで、最も魅力的な作品であると絶賛した。彼女は映画のテーマについて、コーエン兄弟が感じているハリウッドからの疎外感を扱った自画像的な作品であると指摘した[3]。同じくワシントン・ポストの批評家であるデソン・ハウは、不吉な予兆と寓意に満ちたこの映画が、ヨーロッパから見た醜悪な新世界そのものであるように思えると述べた[4]。 作品解説
関連項目
脚注
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