スタンフォードはダブリンの生まれで、ジョン・ジェームズ・スタンフォード(John James Stanford)の2番目の妻であるメアリ(Mary(旧姓ヘンHenn))との間に生まれた唯一の息子である[1]。父ジョンはダブリンでは名の通った弁護士、大法官府裁判所の証人尋問官、そしてミース県の官吏であった[2]。妻はアイルランドの大法官高等裁判所長であったウィリアム・ヘン(William Henn)の三女である[3]。夫妻はともにアマチュアの音楽家であった。ジョンはチェリストであるとともに、1847年にメンデルスゾーンの『エリヤ』のアイルランド初演時のタイトル・ロールを務めるほどのバス歌手でもあった[4][注 6]。メアリはアマチュアのピアニストで、ダブリンで行われるコンサートでは協奏曲のソリストを務めるほどであった[4]。
1874年にスタンフォードが作曲した中に、ロングフェローの「黄金伝説 The Golden Legend」という詩を基にしたものがある。彼は詩全体に対して曲をつけようとしたが、ロングフェローの「たくさんの無関係な登場人物たち」に負け、これを諦めた[33][注 23]。スタンフォードはいっぱしの作曲家となって作品番号の割り当てを行った時、これや他の初期作品を無視した。彼の公式目録に掲載されている最初の作品は、1875年の「ピアノのための組曲」と「ピアノのためのトッカータ」である[35]。
同じ頃、スタンフォードは作曲家としても名前が知られ始めていた。彼は多作家であったが、後年この年代の作品を引っ込めてしまう。その中にはヴァイオリン協奏曲も含まれており、ロッドメルによればそれは「平凡な主題要素」のために上出来とは言えなかったのだという[39]。1875年に、スタンフォードはアレクサンドラ・パレスで開かれた英国の作曲家による交響曲の大会で2等賞を獲得するが、初演まではその後2年を待たねばならなかった[40][注 25]。同じ年に、彼はCUMSの演奏で行われた自作のオラトリオ「復活 The Resurrection」の初演を指揮した[13]。スタンフォードはアルフレッド・テニスンの依頼を受けて戯曲「メアリ女王 Queen Mary」への付随音楽を作曲し、それは1876年の4月にロンドンのライシーアム劇場[注 26]で演奏された[13]。
スタンフォードは1878年に父の反対を押し切り、ジェーン・アンナ・マリア・ウェットン(Jane Anna Maria Wetton)と結婚した。彼女はジェニーとして知られており、彼とは彼女がライプツィヒで勉強をしている時に知り合った[42]。二人は1883年に娘のジェラルディン・メアリー(Geraldine Mary)を、1885年に息子のガイ・デズモンド(Guy Desmond)を授かっている[43]。
1878年と1879年にはスタンフォードは、友人のウィリアム・バークレイ・スクワイヤー(William Barclay Squire)の台本による初のオペラ「神秘の預言者 The Veiled Prophet」に取り組んでいた。これはトマス・ムーア[注 27]の詩に基づく作品で、純潔の尼僧と神秘の預言者が登場し、話は毒を盛り突き刺す場面で最高潮になる[44]。スタンフォードはオペラ興行主のカール・ローザにこのオペラの公演を打診したが、断られてドイツでの公演を考えた方がいいと言われてしまう。「もし海外公演が成功したら、ここでの公演も成功する可能性が高まる。」というのである。ローザはさらにサリヴァンの喜劇が大人気となっていることに言及し、こう付け加えた。「もし作品がPinafore(訳注:サリヴァンの喜劇)の形式だったら、事情は変わってくるのだが[45]。」スタンフォード自身もサリヴァンのCox and Box(訳注:サリヴァンの喜劇)を大いに楽しんではいたが[46]、「神秘の預言者」は劇的要素とロマンスに溢れた真剣な内容にするつもりでいた[47]。スタンフォードはドイツに滞在している間に多くの有用なコネを築いており、彼の友人であるエルンスト・フランク(Ernst Frank)がこの作品を1881年にハノーファーの王立歌劇場(Königliches Schauspiel)で取り上げてくれた[48]。ミュージカル・タイムズ誌への論評として、スタンフォードの友人のJ.A.フラー・メイトランド[注 29]はこう記した。「スタンフォード氏の楽器法は・・・多かれ少なかれシューマンのそれに依っている。一方、彼の劇的要素の扱いは巨匠らの中ではマイアベーアのものに類似している[44][注 30]。」他の論評はまちまちであり[50]、結局彼のオペラがイングランド初演を迎えるのは1893年のことであった[51]。にもかかわらず、スタンフォードは彼の生涯を通じて、オペラでの成功を追求し続けた[52]。一生オペラに対して情熱を燃やし続けた彼と、一度はオペラを作曲しようとしたものの、あとにそれを放棄してしまった同時代のパリーとでは、違いが際立っている[53]。
1880年代までには、スタンフォードは英国音楽界を代表する人物になりつつあった。彼の主なライバルと目されるのは、サリヴァン、フレデリック・コーウェン、パリー、アレグザンダー・マッケンジー、アーサー・トーマスのみであった[52]。サリヴァンは大規模な楽劇ではなく喜劇を作っていたため、意識の高い音楽家のサークルからは当時疑問視されていた[52]。コーウェンは作曲家というより指揮者であると見なされていた、また、他の三人は有望視されてはいたが、まだスタンフォードほどに目立った活躍はしていなかった[52]。スタンフォードはパリーに対して特に知名度が上がるよう協力しており、ケンブリッジ公演のアリストパネスの「鳥」への付随音楽や交響曲(交響曲第2番「ケンブリッジ」)を委嘱するなどした[53]。スタンフォードはケンブリッジにおいて、ヨアヒム、ハンス・リヒター、アルフレッド・ピアッティ、エドワード・ダンロイターなどの客演を取り付け、自分自身とともにCUMSの名声の向上に貢献し続けた。音楽部はコーウェン、パリー、マッケンジー、ゴーリング・トーマスや他の作曲家の作品を初演し、さらに注目を浴びるようになっていった[1]。スタンフォードはまた、トリニティでのオルガニストとしての技量で人びとに印象を与え、音楽的水準を引き上げ、さらに彼の伝記作家であるジェーミー・ディブル(Jermy Dibble)が「特に注目に値する教会音楽」と呼んだ礼拝音楽変ロ長調(1879年)、讃美歌「主は私の羊飼い The Lord is my shepherd」(1886年)、モテット「神に従う人の魂はJustorum animae」(1888年)などを作曲した[1]。
1880年代前半、スタンフォードは2つのオペラ、「サヴォナローラ Savonarola」と「カンタベリーの清教徒たち The Canterbury Pilgrims」で作家のギルバート・ア・ベケット[注 31]と協力関係にあった。前者は1884年4月のハンブルク初演において好意的な評を受けたものの、同年7月のロイヤル・オペラ・ハウスでの公演では散々に酷評された[52]。パリーは私的にこう述べている。「そのオペラは全然練られておらず、公演向けとしてはひどい出来の構成だった。音楽は清涼でよく作られていたものの、印象が薄く劇的な情感に乏しかった[52]。」最も辛辣な公開批評を加えたのはザ・シアター誌(The Theatre)で[52]、その評によると「『サヴォナローラ』の台本は陳腐かつ大袈裟で、劇性という観点からは弱かった。しかし、劇に付された音楽はそれにも増してやかましくうんざりするようなものだった。そのような『サヴォナローラ』を鑑賞したが、私には(スタンフォードの)方向性はこのようなものだとしか思えず、それならば早く劇場を辞して大聖堂での仕事に専念してくれた方が、彼の名声のためでもあるのにと思わずにはいられなかった[54]。」「カンタベリーの清教徒たち」は「サヴォナローラ」のロイヤル・オペラ・ハウス公演の3か月前、1884年4月にロンドンで初演を迎えた[52]。これは「サヴォナローラ」よりは好評を受けたものの、公演評はスタンフォードがマイスタージンガーから受けている影響を指摘し、愛の音楽に情感が不足していることに不満を述べている[55]。ジョージ・グローヴはパリーに宛てた書簡で、批評家に同意しつつ「チャールズの音楽に唯一欠けているものは感情だ。愛情は聴いていて微塵たりとも感じられなかった。(中略)それにもっと音色が豊かであった方がいい。メロディーは決して悪いものではないのだから[52]。」と述べている。1896年にある批評家が記したところによると、そのオペラの「台本は故アルフレッド・セリアー[注 32]になら、よく合ったことだろう。彼なら、それを使って軽いイギリスオペラを作っただろうからだ。しかしスタンフォード氏はあの台本で、拡大された理論を開示する道を選んだ。我々はそれが彼の持ち前であると了解しているが、その音楽を聴いた我々には、彼がマイスタージンガーを下敷きとしたのだろうという印象が残ってしまった。この組み合わせは、幸福な効果をもたらさなかった[56]。」
教授として
1883年、短期間で失敗に終わった国立音楽訓練学校(National Training School for Music; NTSM)に代わるものとして王立音楽大学が設立された[57]。NTSMもより長く続いた王立音楽アカデミーもプロのオーケストラ団員に適するような訓練を施すことができなかったため[注 33]、設立者で総監督であったジョージ・グローヴはそれが可能な新たな機関を設置することを決めた[57]。彼のこの決定に味方したのは、主にヴァイオリニストのヘンリー・ホームズ[注 34]とスタンフォードである。大学設立に関する論考中で、デイヴィッド・ライト(David Write)はスタンフォードがグローヴの目標に力添えをしたのは、主に二つの理由からであったと指摘している。第一に、学生が自分で作曲した作品を音にする経験を得るために、有能な大学オーケストラの存在が不可欠であるという彼自身の信条があった。第二に、ドイツとイングランドのオーケストラの演奏水準に、顕著な差がみられたことである[57]。彼はグローヴによる、作曲の教授と大学オーケストラの指揮者(これはホームズも同様だった)への招聘に応じた[57]。彼はその後、教授職にとどまり続けた。彼の多くの教え子の中で特に有名なのはサミュエル・コールリッジ=テイラー、グスターヴ・ホルスト、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ、ジョン・アイアランド、フランク・ブリッジ、アーサー・ブリスなどである[13][注 35]。
1887年10月に死亡したジョージ・マクファーレンの後任として、スタンフォードはケンブリッジ大学の音楽科教授に任命された[69]。この時まで、ケンブリッジ大学は学部に所属していない者にも、大学が課す音楽の試験を受けて合格するだけで音楽の学位を授けていた。スタンフォードはこの慣習を廃止することを決定し、6年後には大学の重役を説得してこれを認めさせた。大学で3年間学ぶことが、音楽学士(Bachelor of Music)の試験を受験するために必須となった[1][注 36]
1898年、年老いて調子の思わしくなかったサリヴァンは、1880年から続けてきたリーズ音楽祭[注 2]の指揮者を退任した[92]。彼はスタンフォードが前年にリーズ・フィルハーモニック協会[注 43]の指揮者になった狙いは、音楽祭の後継者となることだと信じていた[93]。スタンフォードは後に、彼がサリヴァンと一部共謀していたということはないと否定した『タイムズ』紙に感謝している[94]。当時サリヴァンは他人の作品に対してはいい加減な指揮者だと考えられており[95]、一方スタンフォードの指揮者としての仕事ぶりにはそのような批判はなかったため[96]、彼はサリヴァンの後任としてポストに就いた[注 44]。スタンフォードは1910年までこの職を務めた。音楽祭のために作曲した彼の作品には「海の歌 Songs of the Sea」(1904年)、「スターバト・マーテル Stabat Mater」(1907年)、「海軍歌 Songs of the Fleet」(1910年)がある[13]。スタンフォードの在任期間中にリーズ音楽祭のために作品を提供した作曲家はパリー、マッケンジーやスタンフォードの教え子の7人である[注 45]。スタンフォード時代で、最も知られた作品はおそらく1910年に初演されたヴォーン・ウィリアムズの「海の交響曲(交響曲第1番) A Sea Symphony」だろう[104]。
オペラが好評を得たにもかかわらず、スタンフォードの輝きは衰えていった。20世紀初頭の10年の間に、彼の音楽は若き作曲家エドワード・エルガーの陰に隠れていった[107]。音楽学者のロバート・アンダーソンの言葉を借りるなら、スタンフォードは「19世紀の終わりの数十年をヨーロッパで名声を得る時代にできたが、エルガーによって押し出されたのだ[78]。」エルガーが1890年代に認められようともがいていた時、スタンフォードはその若き仲間を支援してきた。彼はエルガーの作品を指揮し、ケンブリッジ大学の博士号を取らせ、ロンドンの会員制クラブである「アテナ神殿クラブ (the Athenaeum)」への入会を勧めた[78]。しかしながら、リヒャルト・シュトラウス(スタンフォードは彼をひどく嫌っていた)がイギリスで初めての先進的な作曲家であると賞賛するなど、エルガーが内外で成功するようになると、その陰に隠れ消え去ってしまったのである[108]。1904年にエルガーがバーミンガム大学の音楽科教授に任命されると、スタンフォードは彼に宛てて、その受け入れが「実に不愉快である」と手紙を送っている[注 49]。エルガーは狂詩曲の作曲家たち[注 50]について述べた就任講演で復讐を行った。これはスタンフォードを貶す内容だったと広く受け止められている[109]。スタンフォードはその後、著書の「音楽の歴史 A History of Music」の中でさらにやり返している。そこではエルガーについて「宗教と一般的な高等教育を受けていないことで同世代の仲間から切り離されたのだが、幸運にもこの世界に入って地ならしの済んだ耕作地を見つけた。」と記した[110]。
脇へ追いやられて辛苦を味わいつつも、スタンフォードは作曲を続けた[13]。世紀の変わり目から1914年の第一次世界大戦勃発までの間の彼の新作には「ヴァイオリン協奏曲」(1901年)、「クラリネット協奏曲」(1902年)、「交響曲第6番」(1906年)、「第7番」(1911年)と「ピアノ協奏曲第2番」(1911年)などがある[1]。1916年には最後から2番目となるオペラ「批評家 The Critic」を書いている。これはリチャード・ブリンズリー・シェリダンの同名の喜劇への作曲であり、ルウィス・ケーンズ・ジェームズ(Lewis Cairns James)による台本は原作の文言をほとんどそのまま残していた[111]。この作品はロンドンのシャフテスベリー劇場[注 51]における初演で好評を博し、後年ビーチャムに取り上げられマンチェスターとロンドンで上演された[112]。
戦後、スタンフォードは王立音楽大学管弦楽団の指揮活動の多くをエイドリアン・ボールトに引き継いだが、大学で教鞭はとりつづけた[115]。彼は時おり公開講座も開いていた。その中の一つである1921年1月の「作曲の最近傾向を論ず Some Recent Tendencies in Composition」では、彼は自分の後の世代の音楽に敵意をむき出しにした[116]。彼が最後に公に姿を見せたのは1921年3月5日に、自らの新作カンタータ「修道院の門にて At the Abbey Gate」の演奏で王立合唱協会を指揮した時である[13]。演奏会評は丁寧ではあったが、熱を帯びたものではなかった。『タイムズ』紙はこう書いている。「この曲が内に秘めた感情を十分に有しているのか、我々には感じ取ることはできなかった[117]。」オブザーバー紙の評はこうである。「力強いというより上滑りだったと感じられたとしても、非常に魅力的であった[118]。」
スタンフォードの死後、教会で演奏されるものを除いて彼の音楽は急速に忘れられていった。「スターバト・マーテル Stabat Mater」と「レクイエム Requiem」は合唱のレパートリーとして地位を保っており、トーマス・ビーチャムは後者を擁護した[130]。彼の2つの海に関する歌曲集と歌曲「青い鳥 The Blue Bird」は依然として時おり演奏の機会に恵まれていたものの、オペラに関しては最も人気のあった「探偵オブライエン Shamus O'Brien」ですら、使われている「アイルランド舞台言葉」が古臭いものと見なされるようになった[130]。しかしながら、ディブル(Dibble)は2002年のスタンフォードに関する考察において、生の演奏でなくてもCDとして手に入る機会の増しているその音楽が、いまだ驚くべき力強さを備えていると記している。よく聞かれる、スタンフォードは「ブラームスに水を足したようなものだ」という批判は、交響曲や協奏曲、また室内楽曲や歌曲の多くがCD録音として手に入り、再評価されるようになれば間違いだったとわかる、とディブルは考えている[131]。2002年、ロッドメル(Rodmell)はスタンフォードに関する論考に、16ページにわたるディスコグラフィを付している[132]。
スタンフォードの死後、一般に彼の音楽は何年も無視されることになったが、教会音楽はそうではなかった。スタンフォードの音楽について詳細に取り扱った、数少ない書籍のうちの一つである「英国の音楽 Music in Britain」において[145]、ニコラス・テンパーレイは彼おかげで礼拝音楽は「芸術的発明として、聖歌と同等の価値を認める地位」を回復したと記している[146]。ヴォーン・ウィリアムズは「スターバト・マーテル」を、「不朽の美」を備えるスタンフォードの作品の一つだと位置付けている[61]。テンパーレイの考えでは、礼拝音楽のイ長調(1880年)、ヘ長調(1889年)、ハ長調(1909年)は最も重要で、当時より聖堂で演奏される曲目に残り続けている[134]。演奏会用の作品がそうであるように、スタンフォードの音楽はメロディーに支配されている。低声の動きは副次的であっても常に重要で、メロディーと低声の間にあるものはすべて「埋め合わせ」である、とロッドメルは見なしている[147]。
オペラ
1981年に行われたスタンフォードのオペラに関する調査の中で、批評家のナイジェル・バートン(Nigel Burton)が記したのは、「探偵オブライエン Shamus O'Brien」にはいい曲がなく、しかも唯一心に残る旋律はスタンフォードの自作ではないイギリス民謡の「西の栄光 The Glory of the West」であるということだ[49]。バートンは彼自身「哀れな男の『ナクソス島のアリアドネ』」と表現しているように、「批評家」よりさらに否定的な人物であった[49]。1921年のポーテの記述はこうである。そのオペラの音楽は「性格と外観が顕著に鮮烈かつメロディアスで、完全に独特のものである。声楽と器楽にはいずれも神懸り的な筆致が冴えわたっている[148]。」バートンは「空騒ぎ Much Ado About Nothing」については、スタンフォードのオペラでも最良の音楽があてられているとして褒め称えている。バートンはスタンフォード最後のオペラ「旅の道連れ The Travelling Companion」を彼のオペラ作品の最高峰にあげているものの、その力強さの源泉は大半がヘンリー・ニューボルト[注 58]とハンス・アンデルセンによって仕立てられた素晴らしい台本のおかげだとしている[49]。ポーテはその音楽が厳粛で浪漫的、そして面白いほど印象的だと記した[149]。
スタンフォードの教会音楽はよくCDで出されている。ロッドメルの2002年のディスコグラフィーには、礼拝音楽変ニ長調だけで14種類が掲載されている。またイ長調、ヘ長調、ハ長調の礼拝音楽、「3つのモテット Op.38」や「主は私の羊飼い The Lord is my Shepherd」にも多数の録音がある[132]。世俗歌曲にはジャネット・ベイカー(Janet Baker)や他の歌手による「慈悲無き美女 La Belle Dame Sans Merci[注 59]」、キャスリーン・フェリアなどによる「アイルランド牧歌 An Irish Idyll」、トーマス・アレン(Thomas Allen)などが録音した「海の歌 Songs of the Sea」がある[132]。室内楽曲で複数の録音があるものは「クラリネットとピアノのための3つの間奏曲」と「クラリネットソナタ」である[132]。ロッドメルのディスコグラフィーには、オペラは1曲も掲載されていない[132]。
^スタンフォードは1898年の音楽祭のために「テ・デウム Te Deum」を作曲して、自らのリーズでの地位を強固なものにした。対照的に、サリヴァンはその年に新曲を作曲できなかったため音楽祭の委員を落胆させた[97]。スタンフォードの作品は評論家に賞賛された。『ミュージカル・タイムズ』誌はこれを以前の「レクイエム」と同様に素晴らしい作品だとして、「ゲルマン的な厳粛さと知的さを、ラテン的な感覚に訴える明快な感情」と印象深く結びつけていると述べた[98]。にもかかわらず、1898年の音楽祭で最も注目を集めたのはスタンフォードの作品ではなく、エルガーの「カラクタクス Caractacus」であった[99]。
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