タンク・パットン
タンク・パットン(Tank Patton、本名:Douglas Goodwin McMichen、1946年3月23日 - 1998年12月31日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。バージニア州スタントン出身[1]。生年は1949年ともされる[2]。 鉄兜を被ったコンバット・スタイルの巨漢ヒールとして、南部や中西部地区で活動した[2][3]。日本での主戦場だった全日本プロレスでは、覆面レスラーのブラック・テラー(The Black Terror)に変身したこともある[2][3]。 来歴学生時代はアメリカンフットボールで活躍[2]。スコット・ケーシーのスカウトでプロレス入りし[2]、ビッグ・マック(Big Mac)のリングネームでフロリダ、ジョージア、ミッドアトランティックなど南部のNWA圏を転戦[1]。1974年にテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区にてダグ・パットン(Doug Patton)名義で活動した後[3]、ジョージ・パットンの率いたアメリカ戦車部隊にあやかったタンク・パットン(Tank Patton)を名乗り[2]、ザ・ファンクスが主宰していたテキサス州アマリロのNWAウエスタン・ステーツ地区に登場。 1976年8月、同地区からのブッキングで全日本プロレスの『ブラック・パワー・シリーズ』に初来日[2]。シリーズのエース格ボボ・ブラジルのパートナーに起用され、8月26日に札幌中島スポーツセンターにてジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した[4]。このシリーズでは、同じくアマリロから初来日したテッド・デビアスと組んで、グレート小鹿&大熊元司の極道コンビが保持していたアジア・タッグ王座にも挑んでいる[4]。帰国後の11月には主戦場のウエスタン・ステーツ地区にて、テリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦した[5]。 1977年はロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングにて、チャボ・ゲレロ、ビクター・リベラ、ザ・ハングマン、ロディ・パイパー、キース・フランクスらと抗争[6]。アンドレ・ザ・ジャイアントともシングルマッチで対戦した[7]。1978年は4月から6月にかけてWWWFを短期間サーキット、当時アメリカに遠征していたストロング小林とも共闘し、4月25日にフィラデルフィアにて、ミル・マスカラス、ヘイスタック・カルホーン、ラリー・ズビスコのチームと6人タッグマッチで対戦[8]。5月30日にはスクラントンにてブッチャー・バションをパートナーに、ディノ・ブラボー&ドミニク・デヌーチが保持していたWWWF世界タッグ王座に挑戦した[9]。同年下期は中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦、ジェシー・ベンチュラと組んで9月14日にロン・スター&トム・アンドリュースからNWA世界タッグ王座を奪取している[10]。 この間、全日本プロレスには1977年8月の再来日を経て、1978年3月に覆面レスラーのブラック・テラー(The Black Terror)に変身して『チャンピオン・カーニバル』の第6回大会に出場[11]。開幕戦の入場式においてアブドーラ・ザ・ブッチャーに喧嘩を売り、同日に行われたブッチャーとの公式リーグ戦では両者リングアウトの引き分けに持ち込むなど[11]、「リーグ戦荒らし」としての活躍を見せた[12]。ブラック・テラー名義では1980年5月にも全日本プロレスに参戦しており、ザ・デストロイヤーとの覆面レスラー同士の対立アングルも組まれた[13](同時期、素顔のタンク・パットンとして国際プロレスへの参加も予定されていた)。 1981年にはテキサス州サンアントニオのSCW(サウスウエスト・チャンピオンシップ・レスリング)に参戦、4月24日にタイガー・コンウェイ・ジュニアを破り、同団体認定のブラスナックル王座の初代チャンピオンとなった[14]。SCWではブッチャー、タリー・ブランチャード、バック・ロブレイ、ケン・パテラなどと共闘し、ワフー・マクダニエル、ドリー・ファンク・ジュニア、イワン・プトスキー、マニー・フェルナンデス、ボビー・ダンカン、ブルーザー・ブロディらと対戦[15]。以後、1980年代前半はサンアントニオ地区を主戦場に活動した[1]。 得意技獲得タイトル
脚注
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