ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、一柳米来留〈ひとつやなぎ めれる[1]〉、1880年10月28日 - 1964年(昭和39年)5月7日)は、アメリカ合衆国(米国)に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家、キリスト教プロテスタントの信徒伝道者、社会事業家、実業家。
1905年(明治38年)にYMCA派遣の英語教師として来日し、生徒のキリスト教青年会(YMCA)活動を通して滋賀県内の伝道を始め、プロテスタントの伝道団体「近江ミッション」を興した。それを支える資金活動として建築事務所「ヴォーリズ合名会社」を興し、こんにちの近江兄弟社グループを築いた。伝道のほか、自給自足の精神で、病院や学校の開設などの社会事業を行った。建築設計は学生時代に独学で学んだ設計をし、米国で主流であったコロニアル・スタイルやスパニッシュ・スタイルなど様々な様式の建築物を設計。関西を中心に多くの作品を残した[2]。
メンソレータム(現在はロート製薬の商標、近江兄弟社は「メンターム」として販売)を広く日本に普及させた実業家でもある。
若い時期から素描、詩作、オルガン演奏に秀で、讃美歌や同志社カレッジソングなどの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介したことでも知られる。
概要
米国カンザス州レブンワース生まれ。1905年2月、滋賀県立商業学校(現:滋賀県立八幡商業高等学校)にYMCA派遣の英語教師として八幡町(現在の近江八幡市)に着任[1]。合わせて膳所中学と彦根中学でも週1日を教え、各3校の放課後に聖書研究会を開きキリスト教伝道を始めた。しかし仏教徒からの反発があり2年間で教職を解かれた。1907年(明治40年)に自前の近江八幡YMCA会館を建てた直後に解任されたため、その会館を拠点で近江伝道を続ける決意をし、資金活動として特技だった建築設計をミッション関係者に提供するようになった。
1908年(明治41年)秋から1年間、京都YMCA会館新築工事の現場監督を週3日行う。1910年1月末から10ヶ月渡米してYMCA施設の研究と伝道支援者を募る活動をし、米国人建築士レスター・チェーピンを伴って日本に戻り、吉田悦藏と3人で建築設計監督事務所「ヴォーリズ合名会社」を設立した。建築設計スタッフを需要に合わせて次第に増やし、近江八幡を中心としながらも軽井沢、東京、大阪と支所増やし、日本各地でアメリカン・スタイルの建築の設計を数多く手懸けた。住宅、寄宿舎、学校、教会、YMCA会館、病院、音楽専用ホール、百貨店など、その種類も様式も多彩である。
伝道の部門は「近江ミッション」と呼び、伝道をする仲間を徐々に増やし1914年からは両親も加わって滋賀県内各地に伝道を拡げた。特に早稲田大学英語教師だったポール・ウォーターハウスらの伝道船「ガリラヤ丸」による湖西・湖北へ伝道は効果的であった。
近江ミッションのメンバーの増加によって、大正期には婦人による自発的な活動「婦人部」、結核療養所「近江療養院」、「清友園幼稚園」、昭和期には「近江勤労女学校」、「近江向上学園」、「近江家政塾」など特色あるキリスト教主義の社会活動が行われた。
伝道を支える資金活動はヴォーリズ合名会社創立以来建築材料の輸入販売も行っていたが、販売業の本格化をするため1920年(大正9年)に近江セールズ株式会社を設立し建築材料、家庭薬、鍵盤楽器などの輸入販売を行った。
1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族の一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。「米来留」とは「米国より来りて留まる」という決意を表している。
近江商人発祥の地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動した。夏季には避暑地の長野県軽井沢に拠点を移し、こちらでも数多くの建築を手がけた[注 1][5]。また、太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される[6]。
略歴
- 1880年 - 米国カンザス州レブンワースで生まれる。
- 1882年 - この頃から教会の礼拝に出席するようになり、後日、幼児洗礼を受ける。弟ジョンJr.(ジャック)生まれる。
- 1888年 - 米国アリゾナ州フラッグスタッフに一家で転居。
- 1896年 - 米国コロラド州デンバーに一家で転居。イーストデンバー高校に入学[7]
- 1900年 - イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジに入学し、YMCA活動を開始。
- 1902年 - トロントの世界学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。(のちの関西学院第4代院長のベーツもこの大会に参加していた。)この決意により転校せず教養学課程を続け、建築設計の自習を続けた。
- 1904年 - コロラドカレッジをPh. B.(同大学のBachelar of Philosophyは教養学士号の優秀者に与えられたもの)を取得して卒業し、コロラドスプリングスYMCAの主事補となる。
- 1905年(明治38年) - 滋賀県立商業学校(現:滋賀県立八幡商業高等学校)にYMCA派遣の英語教師として赴任[1]。
- 1907年(明治40年) - 自らが設計した八幡基督教青年会館(近江八幡YMCA会館)が完成するも英語教師を解任される。自費で近江伝道を続ける決意をするとともに、その資金活動としてミッション関係者向けに建築設計を始める。
- 1908年(明治41年) - 京都YMCA会館新築工事現場監督を担当。同会館内に建築設計監督事務所を開業する(後のヴォーリズ建築事務所)[7]。
- 1910年(明治43年) - 米国へ一時帰国し、メンソレータム社の創業者ハイドと出会う[7]。10カ月の滞在後、建築士のレスター・チェーピンらを伴って日本に戻る。レスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立。伝道活動を近江ミッション(近江基督教伝道団)と称す。
- 1911年(明治44年) - ヴォーリズ合名会社の事務所棟竣工。
- 1912年(明治45年・大正元年) - ヴォーリズ合名会社軽井沢事務所を開設[7]。
- 1913年(大正2年) - 病気療養のため米国へ帰国。ハイドに再会。日本でのメンソレータム販売代理店となる[7]。
- 1914年(大正3年) - 日本に移住する両親を伴い、近江八幡に戻る[7]。
- 1915年(大正4年) - ヴォーリズ合名会社束京事務所開設。
- 1918年(大正7年) - 結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム、現:ヴォーリズ記念病院)開設。
- 1919年(大正8年) - 子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。
- 1920年(大正9年) - ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立する。
- 1922年(大正11年) - ヴォーリズ建築事務所大阪事務所開設。清友園幼稚園を開園。
- 1923年(大正12年) - 米原紫苑会館内に米原シオン幼稚園を開園。『吾家の設計』を出版。
- 1924年(大正13年) - 団員100名を超える。『吾家の設備』を出版。
- 1930年 - 母校コロラドカレッジよりLLD(名誉法学博士号)を受ける[注 2]。
- 1934年(昭和9年) - 「近江ミッション」を「近江兄弟社」と改称。また、「湖畔プレス社」を設立。
- 1941年(昭和16年) - 日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称。
- 1944年(昭和19年) - 株式会社近江兄弟社を設立。一柳建築事務所を解散。建築設計業務を停止[7]。
- 1945年(昭和20年) - 太平洋戦争に敗れた日本に進駐したマッカーサーと近衛文麿との仲介工作を行ったとされる。
- 1946年(昭和21年) - 近江兄弟社内に建築部が復活。建築設計業務を再開[7]。
- 1951年(昭和26年) - 藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、『失敗者の自叙伝』を『湖畔の声』に連載(1957年まで)。
- 1957年(昭和32年) - くも膜下出血のため軽井沢で倒れ、療養生活に入る。
- 1958年(昭和33年) - 近江八幡市名誉市民第一号に選ばれる[1]。
- 1961年(昭和36年) - 黄綬褒章を受章(建築業界における功績による)。株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所が独立し、大阪に事務所を開設[7]。
- 1964年(昭和39年) - 近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現:ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。83歳。近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)[注 3]に収められる。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する。
- 2014年(平成26年) - 神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築初の重要文化財に指定される。
代表建築
- ウィキメディア・コモンズと日本語版カテゴリページにも画像があります。
教会関係
(学校付属の教会建築は#学校を参照)
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日本基督教団福島教会 1909年
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日本基督教団京都御幸町教会 1913年
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日本福音ルーテル久留米教会 1918年
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日本基督教団大阪福島教会 1926年
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日本基督教団福島新町教会 1927年
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旧神戸ユニオン教会 1928年
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日本基督教団堅田教会 1930年
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日本基督教団浪花教会 1930年
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日本基督教団今津教会会堂 1933年
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近江八幡YMCA会館 1935年
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博愛社礼拝堂 1935年
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日本聖公会京都復活教会 1936年
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ヴォーリズ記念病院礼拝堂 1936年
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日本福音ルーテル熊本教会 1950年
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日本福音ルーテル復活教会 1953年
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日本福音ルーテル岡崎教会教会堂 1953年
学校
建造物名 |
年 |
所在地 |
状態 |
備考
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/京都大学基督教青年会館 |
1913年(大正2年) |
26京都市左京区 |
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/京都府立医科大学基督教青年会橘井寮 |
1913年(大正2年) |
26京都市左京区 |
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/明治学院チャペル(礼拝堂) |
1916年(大正5年) |
13東京都港区 |
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/同志社大学致遠館 |
1916年(大正5年) |
26京都市上京区 |
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/関西学院大学ハミル館 |
1918年(大正7年) |
28兵庫県西宮市 |
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1929年(昭和4年)移築
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/同志社大学啓明館(図書館) |
1920年(大正9年) |
26京都市上京区 |
登録有形文化財 |
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/旧西南学院高等学校旧本館・講堂 (西南学院大学博物館) |
1921年(大正10年) |
40福岡市早良区 |
福岡県指定有形文化財 |
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静岡英和女学院・付属幼稚園
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1926年(大正15年)
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22静岡県静岡市
|
現存せず[14]。
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1945年(昭和20年)の静岡大空襲により焼失[15]。
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/旧彦根高等商業高校・講堂 (滋賀大学経済学部講堂) |
1924年(大正13年) |
滋賀県彦根市 |
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|
静岡英和女学院・付属幼稚園
|
1926年(大正15年)
|
22静岡県静岡市
|
現存せず[14]。
|
1945年(昭和20年)の静岡大空襲により焼失[15]。
|
/静岡英和女学院中学校・高等学校昭和元年校舎、講堂 |
1926年(大正15年) |
22静岡県静岡市 |
現存せず[14]。 |
1945年(昭和20年)の静岡大空襲により焼失[15]。
|
/関西学院大学時計台(旧図書館) |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
登録有形文化財 |
1955年(昭和30年)増築、建物後方の書庫部分は現存せず。
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/関西学院大学外国人住宅(教師住宅→宣教師館) |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
|
全10棟のうち、7号館から10号館を除く6棟が現存。
|
/関西学院大学商学部校舎 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
|
1934年(昭和9年)増築
|
/関西学院大学神学部校舎 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
|
|
/関西学院大学経済学部校舎 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
|
|
/関西学院大学文学部校舎 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
|
|
/関西学院大学学院本館 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
|
|
/関西学院大学門衛舎等 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
|
|
/関西学院大学中央講堂 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
現存せず。 |
ファサードを再現。
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/関西学院大学宗教館 |
1929年(昭和4年) |
28兵庫県西宮市 |
現存せず。 |
「吉岡記念館」としてファサードを再現。
|
土山小学校講堂
|
1929年(昭和4年)
|
滋賀県甲賀市
|
現存せず。
|
1986年建替
|
/旧制大阪高等医学専門学校 (大阪医科大学歴史資料館) |
1930年(昭和5年) |
27大阪府高槻市 |
登録有形文化財 |
講堂・階段教室だった別館が現存。後の附属看護専門学校校舎。
|
/清友園幼稚舎・体育館 (ハイド記念館・教育会館) |
1931年(昭和6年) |
滋賀県近江八幡市 |
登録有形文化財 |
のち近江兄弟社幼稚園
|
/横浜共立学園本校舎 |
1931年(昭和6年) |
14神奈川県横浜市中区 |
|
|
/同志社大学アーモスト館 |
1932年(昭和7年) |
26京都市上京区 |
登録有形文化財 |
|
/関西学院中学部・高等部本部棟 (旧関西学院大学予科校舎) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
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/近江兄弟社女学校(後の近江兄弟社中学校・高等学校 |
1933年(昭和8年) |
近江八幡市市井町 |
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/神戸女学院ケンウッド館 |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
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/神戸女学院エッジウッド館 |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院汽罐室(ボイラー室) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院パーゴラ |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院葆光館(中等部・高等部校舎1号館) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
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/神戸女学院寮 |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
阪神・淡路大震災により被災し、現存せず。 |
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/神戸女学院グリーンウッド館 |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
阪神・淡路大震災により被災し、現存せず。 |
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/旧神戸女子神学校本館 (関西学院大学・聖和短期大学西宮聖和キャンパス ダッドレーメモリアルチャペル) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
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/旧神戸女子神学校宣教師館 (関西学院大学・聖和短期大学西宮聖和キャンパス ゲーンズハウス |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
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/神戸女学院正門および門衛舎 |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
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/神戸女学院音楽館(音楽学部1号館) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院図書館(図書館本館) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院理学館 |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院文学館 |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院社交館 |
1933年(昭和8年) |
重要文化財 |
|
/神戸女学院総務館、講堂および礼拝堂(ソール チャペル) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/神戸女学院体育館(第一体育館) |
1933年(昭和8年) |
28兵庫県西宮市 |
重要文化財 |
|
/東洋英和女学院 |
1933年(昭和8年) |
13東京都港区 |
現存せず。 |
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/旧彦根高等商業学校同窓会館 (滋賀大学陵水会館) |
1933年(昭和8年) |
25滋賀県彦根市 |
登録有形文化財 |
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/西南女学院ロウ講堂 |
1935年(昭和10年) |
40福岡県北九州市小倉北区 |
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/遺愛学院講堂 |
1935年(昭和10年) |
01北海道函館市 |
登録有形文化財 |
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/梨花女子大学校本館 |
1935年(昭和10年) |
大韓民国ソウル市西大門区 |
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/国際基督教大学食堂 |
1935年(昭和10年) |
13東京都三鷹市 |
現存せず。 |
|
/国際基督教大学男女寄宿舎 |
1955年(昭和30年) |
13東京都三鷹市 |
現存せず。
|
|
/豊郷町立豊郷小学校旧校舎 |
1937年(昭和12年) |
25滋賀県豊郷町 |
登録有形文化財 |
|
/新渡戸文化短期大学新渡戸記念館 |
1937年(昭和12年) |
13東京都中野区 |
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|
/慶應義塾大学キリスト教青年会館 |
1937年(昭和12年) |
神奈川県横浜市港北区 |
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/同志社大学宣教師館 |
1938年(昭和13年) |
26京都市上京区 |
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/関西学院大学旌忠碑 |
1940年(昭和15年) |
28兵庫県西宮市 |
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/静岡市立森下小学校 |
1940年(昭和15年) |
22静岡県静岡市 |
現存せず。 |
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/滋賀県立八幡商業高等学校本館 |
1940年(昭和15年) |
25滋賀県近江八幡市 |
登録有形文化財 |
|
/同志社大学旧図書貴重品庫 (新島遺品庫) |
1942年(昭和17年) |
26京都市上京区 |
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/西南女学院マロリーホール |
1950年(昭和25年) |
40福岡県北九州市小倉北区 |
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/旧英和女学院宣教師館 |
1950年(昭和25年) |
静岡県22静岡市葵区 |
登録有形文化財
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現在は個人住宅兼フランス料理レストラン「ミス・カニンハム」
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/国際基督教大学旧講堂(礼拝堂) |
1954年(昭和29年) |
13東京都三鷹市 |
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/国際基督教大学ディッフェン・ドルファー記念館 |
1958年(昭和33年) |
13東京都三鷹市 |
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/国際基督教大学シーベリー・メモリアルチャペル |
1958年(昭和33年) |
13東京都三鷹市 |
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/関西学院大学ランバス記念礼拝堂 |
1959年(昭和34年) |
28兵庫県西宮市 |
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/関西学院大学学生会館(旧館) |
1959年(昭和34年) |
28兵庫県西宮市 |
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/関西学院大学社会学部校舎 |
1960年(昭和35年) |
28兵庫県西宮市 |
現存せず。 |
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関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス1929年
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同志社大学アーモスト館 1932年
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個人宅
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旧ピアソン邸 1914年
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小寺邸 1930年
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旧下村邸 1934年
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六甲山荘 1934年
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室谷邸 1934年
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クラブハリエ日牟禮館(旧忠田邸) 1936年
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旧マッケンジー邸 1940年
その他
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旧醒井郵便局局舎 1915年
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山の上ホテル 1936年
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ヴォーリズ記念病院五葉分館 1936年
保存活動
2007年(平成19年)5月、滋賀県近江八幡市や兵庫県西宮市のNPO法人(特定非営利活動法人)など9団体・個人が呼びかけ人となり、北海道から山口県までの約20団体が参加し、「ヴォーリズ建築文化全国ネットワーク」が設立された[16]。
豊郷小学校の校舎改築問題
2001年(平成13年)、滋賀県内にあるヴォーリズ建築の豊郷町立豊郷小学校校舎(1937年(昭和12年)建設)を巡り、取り壊して改築しようとした町・PTAと、同校舎を残そうと願う一般の人々(卒業生など地元住民、建築関係者)の間で激しい対立が生じた。
他に、同じ滋賀県にあるツッカーハウス(ヴォーリズ記念病院旧本館)は解体が決定していたが、その後一転して保存が決まり、2014年(平成26年)に国の登録有形文化財に登録された。
主著書
- 『The evangelization of rural Japan』近江ミッション、1915年(大正4年)
- 『A Mustard-Seed in Japan』近江ミッション、1922年(大正11年)
- 『吾家の設計』文化生活研究会、1923年(大正12年)
- 『吾家の設備』文化生活研究会、1924年(大正13年)
- 『一粒の信仰』春秋社、1930年(昭和5年)
- 『失敗者の自叙伝』近江兄弟社・湖声社、1970年(昭和45年)
参考図書
参考記事
- 「ヴォーリズ没後50年」『日本経済新聞』朝刊2014年11月15日文化面(執筆は大阪・文化担当 田村広済)
関連書籍
脚注
注釈
- ^ 自身の別荘含め、軽井沢で60軒余の建築を手掛けた[3]。ヴォーリズの妻満喜子は、「軽井沢は彼にとっては、働くにも遊ぶにも神に聞くにも、最もよい土地でありました。高原の空気は肉体に、ビタミン的効果をもたらしたばかりでなく、彼には精神強壮剤でもあったのです」[4]と述べている。
- ^ 一柳満喜子は『失敗者の自伝』の「序文」で、「母校コロラドカレッジColorado Collegeは、近江兄弟社の事業に対する功績を認め、米来留に名誉学位を授けました」と記している。
- ^ ヴォーリズの設計により、1928年(昭和3年)竣工。管理は財団法人近江兄弟社が行っている。
- ^ ヴォーリズ建築事務所の設計原案に基づき、早稲田大学の内藤多仲と今井兼次の共同設計。
出典
関連項目
外部リンク