アルフ・ラムゼイ
サー・アルフ・ラムジー(Sir Alfred Ernest "Alf" Ramsey、1920年1月22日 - 1999年4月28日)は、イングランドの元サッカー選手、サッカー指導者。イングランド代表監督として1966年のFIFAワールドカップ・イングランド大会優勝に導いた人物である。 経歴選手時代ラムゼイは1920年にロンドン郊外のダゲナムで生まれた。1943年にサウサンプトンFCで選手経歴を開始した当初はインサイドフォワード(現在の攻撃的MF)としてプレーをしていたが、フルバック(現在のDF)へとコンバートされると顕著な活躍を見せるようになり、1949年に2万1千ポンドの移籍金でトッテナム・ホットスパーFCへ移籍した。トッテナムではアーサー・ロウ監督の速攻を主体とした戦術に適応し、また優れたリーダーシップでチームメイトを統率し「将軍」(the general)の愛称で呼ばれた。ラムゼイはスピードは無いものの、ポジショニングの良さと強烈なタックルを武器に活躍し、ペナルティキックを得意ともしていた。 イングランド代表としては1948年12月のスイス戦でデビューを飾り、1950年のFIFAワールドカップ・ブラジル大会に出場するなど、1954年に代表から退くまで国際Aマッチ32試合に出場し3得点を記録した。一方で、ブラジル大会のアメリカ合衆国戦(試合は0-1でイングランドの敗戦)や、1953年11月にロンドン・ウェンブリースタジアムで行われたハンガリーとの親善試合における歴史的な敗戦(試合は3-6でイングランドの敗戦)にも選手として立ち会っている。 監督時代ラムゼイは1955年に現役を引退すると、直ぐに指導者の道へ進み、同年にイプスウィッチ・タウンFCの監督に就任した。当時3部リーグ所属し、無名選手ばかりで構成されていた弱小クラブを就任2年目の1956-57シーズンに3部リーグ優勝に導き2部リーグ昇格。1960-61シーズンに2部リーグで優勝し1部リーグ昇格へ導くと、1部昇格初年度の1961-62シーズンに1部リーグ優勝へと導いた。 この手腕が認められ、1962年にFIFAワールドカップ・チリ大会終了後にウォルター・ウィンターボトムの後任としてイングランド代表監督に就任した。1963年に敵地のパリで行われた1960 欧州ネイションズカップ、フランス戦が初采配となったが、この試合を2-5で落とし、先行きが不安視された。ここから改革に着手することとなった。この当時の代表選考に関しては、監督の意向よりも代表選考委員会(The team selection committee)の人選が優先されていたが、ラムゼイはその権限を掌握し、自ら代表選手の選考を行った。またウィンターボトムの時代には実現しなかったチームドクターの必要性を説き、帯同させるようになった。 1966年のFIFAワールドカップ・イングランド大会ではウイングを外し中盤の運動量を重視した4-4-2システム(ウイングレス・システム)を採用[1]。地元開催の重圧の中、準決勝でポルトガル、決勝で西ドイツを下し初優勝。1968年のUEFA欧州選手権1968では3位、1970年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会ベスト8進出に導いた。しかし、1973年10月に行われたFIFAワールドカップ・西ドイツ大会予選、ポーランドに競り負け予選敗退が決まると、責任を問われ監督を辞任した。 代表監督から退いたラムゼイは、1977年にバーミンガム・シティFCの暫定監督、1979年にギリシャのパナシナイコスのテクニカルディレクターを務めた。 その後ラムゼイは1998年に脳梗塞にかかり、翌1999年4月28日にイプスウィッチの病院でアルツハイマー病により亡くなった。79歳没。彼の死後の2002年に、生前の功績が認められイングランドサッカー殿堂入りを果たした。 エピソード
脚注
参考文献外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia