コリン・ベル
コリン・ベル(Colin Bell MBE、1946年2月26日 - 2021年1月5日)は、イングランドの元プロサッカー選手。ニックネームはザ・キング・オブ・キパックスや、ニジンスキー(無尽蔵のスタミナから)など。マンチェスター・シティFCではセルヒオ・アグエロ、エリック・ブルック、トミー・ジョンソンに次ぐ公式戦152得点を挙げている。マンチェスター・シティの歴代最高の選手として広く認められている。エティハド・スタジアムのコリン・ベル・スタンドはベルの栄誉を讃えて名付けられた。 初期ベリーFCでキャリアを始め、若くしてキャプテンを務めた。1966年にマンチェスター・シティFCに移籍すると、同年の1部昇格に貢献した。マンチェスター・シティと契約しようとした時、マルコム・アリソンコーチはベルに興味を示した他のクラブに対して、「ヘディングができず、パスもできず、見込みがない」と言って欺いた。アリソンの策略は成功し、ベルはシティと契約した。1968年にはシティの2度目のリーグ優勝に貢献した。 同年、ベルはイングランド代表にも選ばれ、スウェーデン戦に出場した。1969年にはオランダ戦、ブラジル戦でゴールを決め、代表でも名が知られるようになった。1970年にはリーグカップとUEFAカップウィナーズカップで優勝した。 メキシコワールドカップ1970年、ベルはメキシコで開催される1970 FIFAワールドカップのメンバーに選ばれた。準々決勝の西ドイツ戦(2-3で敗戦)でボビー・チャールトンに代わって途中出場した。この交代はイングランドにとって試合の流れを悪くしたターニングポイントだと思われていた。しかしチャールトンは交代によって試合の流れが変わったのではなく、交代前に西ドイツが挙げた1点目の得点が流れを変えたのだと指摘した。 晩年イングランド代表としては通算48試合に出場し、9得点を挙げた。1972年の北アイルランド戦ではキャプテンを務めた。これらの成功にもかかわらず、イングランドが1974ワールドカップ予選で敗れ本大会に出場できなかったため、世界の舞台では名声を上げられなかった。 代表で最も良いパフォーマンスを見せた試合としては、7-0で勝利したオーストラリア戦や、1975年に当時の世界王者西ドイツを下した試合が挙げられる。西ドイツ戦の攻撃陣はミック・シャノン、ケビン・キーガン、マルコム・マクドナルド、アラン・ハドソン、アラン・ボール・ジュニア、そしてベルが名を連ねた。 シャノンはこのイングランドの攻撃陣を1970年以来最も良いと考えていたが、当時のドン・レヴィー監督がこの起用を続けないのは理解できないとコメントしていた。 怪我と引退1975年、29歳の時、ベルはリーグ・カップのマンチェスター・ユナイテッドFC戦でマーティン・バカンと接触し、右膝に深刻な怪我を負った。シティのピーター・スウェールズ会長はベルのことを「替えが利かない」と表現していた。マルコム・アリソン監督が1970年代後半に再びシティを率いたとき、ベルやサマービー、フランシス・リーに代わるタレントを見つけられず、この言葉は本当であったと分かった。 1980年、ベルは復活を期して北米サッカーリーグのサンノゼ・アースクエイクスに移籍した。ここではかつてマンチェスター・ユナイテッドでプレーしていたジョージ・ベストとチームメイトになった。移籍は成功せず、出場は5試合にとどまった。 引退後後にベルはシティのユースチームでサッカーの仕事を続けた。1990年代にはクラブで初となるアンバサダーに就任した。2003年5月には、メイン・ロードで行われた最後の試合(対サウサンプトン)にゲストとして招かれた。2004年、ファンによる投票で、新しいスタジアム(シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム)のスタンドの名前がコリン・ベル・スタンドとなることに決まった。 これは唯一無二の栄誉であり、他のスタンドには選手の名前は付けられていない。ただし、スタジアムまで繋がるジョー・マーサー・ウェイはシティで最も成功を収めた監督から名付けられている。2005年にはイングランドサッカー殿堂と大英帝国勲章を受賞した。同年には自伝『コリン・ベル: Reluctant Hero』を刊行した。この自伝では、母が大腸癌で39歳に亡くなったが、まだ幼すぎて覚えていないことなどが明かされた。 個人成績
タイトル
脚注
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