サー・ロバート・ウィリアム・ロブソン CBE (Sir Robert William "Bobby" Robson, 1933年 2月18日 - 2009年 7月31日 )[ 1] は、イングランド 出身のサッカー選手 、指導者。選手としてイングランド代表 でプレイし、現役引退後は監督を務めた。
プロサッカー選手としての20年近くのキャリアを3つのクラブ、フラム 、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン 、バンクーバー・ロイヤルズ で送り、ポジションはインサイドフォワード であった。イングランド代表では20キャップを記録し、4ゴールを挙げている。現役引退後には監督としてクラブ、代表の双方で結果を残し、オランダとポルトガルではリーグタイトル、イングランドとスペインでもカップ戦のタイトルを獲得した。1990 FIFAワールドカップ では1966 FIFAワールドカップ 以降では最高となるベスト4へイングランド代表を導いた。最後に就いた仕事はアイルランド代表 監督の顧問であった。
2002年にはナイト を受勲し、2003年にはイングランドサッカーの殿堂 入りをし、イプスウィッチ・タウン の名誉会長の栄誉を授かった。1991年からがん に冒され健康に問題を抱えたが、2008年3月からがん研究のための慈善団体であるサー・ボビー・ロブソン基金 を設立し、700万ポンド以上の資金を集めた(2014年3月現在)[ 2] 。2008年8月に肺がんは末期状態となったが、「病状は最後に化学療法 を行っていた時から変わっていない。そう長くはないだろう。けれども、それは誰もが辿る道であるし、これまで1分1秒を楽しんできた。」と話し[ 3] 、その翌年に亡くなった。
生い立ち
ロブソンはダラム のサクリストン でフィリップとリリアン(旧姓ワット)夫妻の間に5人兄弟の4番目の子どもとして生を受けた[ 4] 。ロブソンが生まれて数ヶ月の時に家族は近くの村であるラングレー・パーク に引っ越し、父は炭鉱夫として家族の生活を支えた。そこでのロブソンの家は寝室は二部屋あるが風呂はなく、トイレは家の外にあった[ 5] 。往復で34マイルの道のりを要したが、土曜日の午後には父親にセント・ジェームズ・パーク へニューカッスル・ユナイテッド の試合を観によく連れて行ってもらっていた[ 5] [ 6] [ 7] [ 8] 。少年時代のアイドルはジャッキー・ミルバーン とレイ・シャクルトン であったが[ 7] 、両選手ともニューカッスルではインサイドフォワードのポジションを務めており、それは後にロブソンがサッカー選手としてのキャリアで務めることになるポジションであった。
ロブソンはラングレー・パーク小学校に入学し、中等教育機関であるウォーターハウシズ・セカンダリー・モダン・スクールに進学したが、校長が学校のサッカーチームがリーグに加盟することを許可しなかったため[ 9] 、代わりに11歳の時からはラングレー・パーク・ジュニアーズで土曜日の朝にプレイするようになり、15歳の時にはクラブのU-18のチームを代表する選手になっていた[ 10] 。15歳で学校を卒業すると村の炭鉱 で電気技師の見習いとして働き始めたが[ 5] [ 11] 、空いた時間にはサッカーをしており、1950年5月にフラム で監督を務めていたビル・ドッドジン がロブソン家を訪れ、ロブソンにプロ契約を提示した。家から近いミドルズブラ からもオファーを受けていたが、ドッドジンが提示したオファーは断るには惜しい内容であったため、フラムと契約し、ロンドン へ移ることを選択した[ 12] [ 13] [ 14] 。フラムではインサイドフォワードとウイングハーフを務めることになった[ 15] 。ロブソンが応援していたチームであるニューカッスルも関心を示していたが、ロブソンの考えでは、「ニューカッスルは自分と契約するために何の努力もしなかった」。ロブソンはまた、フラムの方がトップチームで出場できる可能性が高いと考えていた[ 5] 。
選手経歴
クラブ
父は電気技師としての仕事を続けることを望んでいたが、ロブソンはプロ契約を結んだ。日中はイギリス祭りの展覧会場で働き、週の3日間、夜間練習に参加していたが[ 16] 、両立は難しく、結局はサッカー選手1本で生計を立てるため、他の仕事は辞めることになった[ 17] 。
1950年、ディビジョン1 に昇格したばかりのフラム対シェフィールド・ウェンズデイ 戦でトップチームデビューを果たした[ 18] 。ロブソンは、「優勝を目指すチームではないが、社交的で素晴らしいクラブである。」とフラムに敬意を抱くようになった[ 19] 。1951-52シーズンにフラムは下部リーグに降格したが[ 20] 、ロブソンは4年後の1956年3月、当時のクラブ記録なる移籍金25,000ポンドでウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン に加入し[ 21] [ 22] 、再びトップリーグでプレイすることになった[ 12] [ 23] 。
アルビオンでのデビュー戦は1956年 3月10日 に行われ、0-4で敗れたマンチェスター・シティ 戦である[ 24] 。1957-58シーズンには5-1で勝利したバーンリー 戦での4ゴールを含め、クラブのトップリーグでの記録となる24ゴールを挙げた[ 25] 。中盤でプレイすることも少なくなかったが、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンでは257試合61ゴールという成績を残し[ 5] 、1960-61シーズンと1961-62シーズンはキャプテンを務めた[ 26] 。しかし、1962年の夏、クラブの副会長であったジム・ガウントと金銭面で合意できず、フラムへ復帰することになった[ 27] 。出場給についての議論中にチームメイトのジミー・ヒル と選手協会は、2人目の子どもが生まれたことを理由に昇給を要求するようロブソンを促したが[ 28] 、ガウントはロブソンとの契約交渉を拒否したため、ロブソンはトランスファー・リクエストを提出し、20,000ポンドの移籍金でフラムに放出されることになった[ 29] 。そこでは給料は2倍になったが、ロブソンの加入直後にクラブはアラン・ムレリー とロドニー・マーシュ を放出したため、何らかのタイトルを獲得する可能性は小さくなってしまった[ 30] 。ロブソンは、「サッカー選手としてのキャリアでは、何も勝ち取ることはなかった。」と振り返っている[ 30] 。
アーセナル と選手兼任監督 としてサウスエンド・ユナイテッド が興味を持っていると報じられたが[ 31] [ 32] 、1967年にフラムを去ったロブソンはバンクーバー・ロイヤルズ と3年間の契約を結んだ。「逃すには惜しいチャンスである」と考えており[ 33] 、北米サッカーリーグ の1968年のシーズンには選手兼任監督になることになっていたが[ 12] 、サンフランシスコ・ゴールデン・ゲート・ゲールズ の所有者がチームの共同保有者となり、難しい立場に置かれてしまった[ 34] 。その影響を受け、チームのサンフランシスコ部門についてはフェレンツ・プスカシュ が、バンクーバー部門についてはロブソンが監督するということになったが、こうした状況に不満を募らせたロブソンは、1968年1月にフラムからの監督就任オファーを受け入れた[ 35] 。
代表
フラム 所属時にFA の使節団の一員として1955年に西インド諸島 、1956年に南アフリカ共和国 を訪れたが[ 18] 、A代表のメンバーとして初めてイングランド代表 に招集されたのは、監督であったヴィク・バッキンガム が採用するトータル・フットボール の前身とも言えるプッシュ・アンド・ラン 戦術を実践していたウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン に所属していた1956年のことであった[ 36] [ 37] 。チームメイトでイングランド代表監督時代にアシスタントコーチを務めることになるドン・ハウ も一緒に選出された[ 38] 。
1957年11月に行われたフランス代表 戦がデビュー戦であり、4-0で勝利し、ロブソンは2ゴールを挙げた[ 39] 。素晴らしいデビューを飾ったが、次戦のスコットランド代表 戦ではボビー・チャールトン が起用されたため、出場機会はなかった[ 40] 。しかし、1958 FIFAワールドカップ ではナット・ロフトハウス 、スタンリー・マシューズ を差し置いてメンバー入りを果たした。ワールドカップでのイングランド代表はソビエト連邦代表 にグループリーグのプレイオフで敗れ、失意のまま大会を後にした[ 41] 。
ワールドカップ後にはイングランド代表でも重要な選手となり、1960年10月から1961年3月までに6勝を挙げ、ウェンブリー・スタジアム で記録的な9-3で勝利したスコットランド代表戦ではゴールを決めた[ 42] 。1962 FIFAワールドカップ のメンバーにも選ばれたが、大会前にチリのクラブとの試合で足首を負傷し、本大会ではプレイできなかった。「私が再び代表でプレイすることはなかった…。代表でのキャリアには満足していない。」と回想しており[ 43] 、代表のポジションはボビー・ムーア に取って代わられた[ 5] 。
個人記録
概要
リーグ
カップ
リーグカップ
トータル
シーズン
クラブ
ディビジョン
出場
ゴール
出場
ゴール
出場
ゴール
出場
ゴール
イングランド
リーグ
FAカップ
リーグカップ
トータル
1950-51
フラム
ディビジョン1
1
0
–
–
1
0
1951-52
16
3
–
–
16
3
1952-53
ディビジョン2
35
19
1
0
–
36
19
1953-54
33
13
1
1
–
34
14
1954-55
42
23
1
0
–
43
23
1955-56
25
10
2
0
–
27
10
1955-56
WBA
ディビジョン1
10
1
–
–
10
1
1956-57
39
12
2
1
–
41
13
1957-58
41
24
7
3
–
48
27
1958-59
29
4
1
1
–
30
5
1959-60
41
6
3
0
–
44
6
1960-61
40
5
1
0
–
41
5
1961-62
39
4
4
0
–
43
4
1962-63
フラム
34
1
2
1
2
0
38
2
1963-64
39
1
2
0
1
0
42
1
1964-65
42
1
2
0
3
1
47
2
1965-66
36
6
–
3
0
39
6
1966-67
41
0
3
0
3
0
47
0
北米
リーグ
USオープンカップ
リーグカップ
トータル
1967
バンクーバー・ロイヤルズ
北米サッカーリーグ
–
–
–
–
1968
–
–
–
–
トータル
イングランド
583
133
32
7
12
1
627
141
キャリアトータル
583
133
32
7
12
1
627
141
イングランド代表
年
出場
ゴール
1957
1
2
1958
4
0
1959
0
0
1960
6
0
1961
8
2
1962
1
0
トータル
20
4
代表でのゴール
監督経歴
キャリア初期
ポートマン・ロード に立つロブソンの銅像
1959年に当時のイングランド代表監督であり、FA のコーチングダイレクターを努めていたウォルター・ウィンターボトム より、リレシャルでコーチングコースを受けるよう薦められた[ 38] 。ロブソンはフラム の2度目の在籍時に指導者としての資格を取得し、オックスフォード・ユニバーシティ でコーチも始めた[ 5] 。監督としてのデビューは選手としても所属していたフラムで1968年1月に行われたFAカップ 3回戦のマクルズフィールド・タウン 戦であった。若きマルコム・マクドナルド を獲得したが、フラムは24試合で16ポイントの勝ち点しか得られず[ 44] [ 45] 、クラブの降格を防ぐことができなかったロブソンは[ 46] [ 47] 、ディビジョン2で8位に位置していた11月にクラブを去ることになったが[ 48] 、クラブからではなく、駅で「ロブソン、クビ」という『ロンドン・イブニング・スタンダード 』の見出しを見て、自身の処遇を知ったのであった[ 49] 。
1969年にイプスウィッチ・タウン の監督に就任したロブソンは、会長であったジョン・コボルド 、兄弟のパトリック・コボルド の支持を受け、監督して成功を収め、自身の名声を高めることになった。ポートマン・ロード でチェルシー の監督を務めていたデイブ・セクストン の調査に訪れていたイプスウィッチのダイレクターであったマレイ・サングスターと出会い、空席となっていたポストに就くことができたのであった[ 50] 。特に実りのない4シーズンを過ごした後の1972-73シーズンにイプスウィッチをディビジョン1の4位に押し上げ、テクサコカップ のタイトルを獲得した[ 51] 。そのシーズンから9シーズンの間、イプスウィッチが6位以下の順位でシーズンを終えたのは1977-78シーズンのみであるが、そのシーズンは決勝戦でアーセナル を破り、FAカップ のタイトルを獲得した[ 52] 。13年間監督を務め、リーグ戦では2度の準優勝、ヨーロッパの大会でも常連となり、1980-81シーズンにはAZアルクマール 戦を2試合計5-4で勝ち上がるなどし、UEFAカップ のタイトルを獲得した[ 53] 。13年間の間に他クラブから獲得した選手はアラン・ハンター 、ブライアン・ハミルトン 、ポール・マリナー ら14名だけであり[ 15] 、テリー・ブッチャー 、ジョージ・バーレー 、ジョン・ウォーク 、ミック・マイルズ 、コリン・ヴィルジョーン 、アラン・ブラジル 、トレヴァー・ワイマーク 、ブライアン・タルボット 、ケヴィン・ビーティー 、エリック・ゲイツ と多くの選手をユースから育て、いずれの選手も代表に選出された。国外のクラブからはフランス・ティッセン 、アーノルド・ミューレン を獲得した[ 5] 。ロブソンは戦術的な才能があったが、優れた人間性も有しており、愛情深く、チームが最高の成果を出せるように熱心に取り組み、選手の才能を発揮させた[ 5] 。
2002年に功績を讃えて、イプスウィッチ・タウンのホームグラウンドであるポートマン・ロードのコボルドスタンド側に建立された実物大の銅像が披露された[ 54] 。2006年 7月7日 には1987年に亡くなったブランチェ・コボルド夫人が初めて任命されて以来となるクラブの名誉会長に名を連ねた[ 55] 。
イングランド代表
イプスウィッチでの業績が評価され、ロブソンはイングランド代表 監督の就任オファーを受けた。クラブのダイレクターであったパトリック・コボルドからは10年間の契約延長と昇給のオファーを受けたが[ 56] 、イングランド代表が1982 FIFAワールドカップ から敗退した2日後の1982年 7月7日 、前監督であるロン・グリーンウッド に続いて代表監督に就任した[ 12] [ 57] 。アシスタントコーチにはウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン時代のチームメイトであるドン・ハウ を任命した。
監督に就任した最初の試合でケビン・キーガン を招集しなかったため、就任早々議論を巻き起こした[ 58] 。1983年 9月21日 にはイングランド代表として戦った28試合の大会の予選の試合で唯一の敗北をデンマーク代表 に喫し[ 59] 、この1敗によりUEFA欧州選手権1984 の出場を逃すと[ 60] 、ブライアン・クラフ に席を譲ると辞任を申し出たが[ 61] 、FAの会長であったバート・ミリチップ は拒否したため(ミリチップとFAはクラフを良く思っていなかった)、1986 FIFAワールドカップ までチームを率いることになった[ 62] 。
本大会でのイングランド代表はキャプテンであったブライアン・ロブソン が肩の脱臼を再発したこともあり[ 63] 、十分なパフォーマンスを見せられなかったが、グループリーグの最終戦を前にマーク・ヘイトリー をピーター・ベアズリー に代えてゲーリー・リネカー と前線で組ませる変更を加えると[ 64] 、ポーランド代表 戦と1回戦のパラグアイ代表 戦をともに3-0で勝利した[ 65] 。
続くアルゼンチン代表 戦はディエゴ・マラドーナ の今では神の手 とゴール・オブ・センチュリー として知られる2ゴールにより敗れた[ 65] 。ロブソンは、マラドーナの神の仕業という主張には感心していなかった[ 66] 。
「あれは神の手ではない。悪党の手だ。神は関係ない… その日、私の目には永遠にマラドーナの名声は地に落ちた。」
UEFA欧州選手権1988 の予選ではトルコ代表 戦の8-0での勝利を含め、勝ち点は1ポイントしか落とさなかったが[ 60] 、本大会ではアイルランド代表 、オランダ代表 、ソビエト連邦代表 の前にグループリーグで3戦全敗し[ 67] 、イギリスのメディアの批判を受けた。サウジアラビア代表 と親善試合で引き分けた後には新聞社の1つが「アッラーに誓って」辞任を求め[ 68] 、ロブソンは辞意を伝えたが、ミリチップは再度それを拒否した(前回と同様にブライアン・クラフの存在が理由としてよく指摘されている)[ 69] 。
1990 FIFAワールドカップ の予選では6試合を無失点で切り抜け、本大会では6つのシード国の1つであった[ 70] 。グループリーグではオランダ代表とアイルランド代表、エジプト代表 と同居し[ 71] 、キャプテンのブライアン・ロブソン をアキレス腱の負傷で起用できなくなったが[ 72] 、3試合で勝ち点4を獲得し、首位でグループリーグを突破した[ 73] 。初戦のアイルランド代表戦を1-1で終えた後にはスイーパーを導入したシステムから伝統の4-4-2フォーメーションに選手が戻すことを要求したとの報道もあったが[ 74] 、ロブソンはそれを拒んだ[ 66] 。
決勝トーナメントではベルギー代表 、カメルーン代表 に勝利し、準決勝で西ドイツ代表 と対戦した[ 73] 。
試合は延長戦 を終えても1-1のままで、PK戦 の末にイングランド代表は敗れた[ 75] 。試合後には、「準決勝でできた他の采配の可能性については考えない。そうしなければ前には進めない。」と述べた[ 12] [ 76] 。ロブソンはアルフ・ラムゼイ 以来となるワールドカップ でイングランド代表をベスト4以上に導いた監督となり、国外で開催されたワールドカップに限れば唯一の監督であった。
国外での監督
ワールドカップ前にFAは、エールディヴィジ 4連覇、UEFAチャンピオンズカップ 1987-88 を制したフース・ヒディンク の後任としてPSVアイントホーフェン の監督に就任するため、ロブソンとは契約を延長しないことを発表していた[ 12] [ 57] 。PSVはヒディンクと同様にチームに規律を植え付けることができる監督を捜していた[ 77] 。ロブソンはこの監督就任について「カルチャーショック」ではあるが「冒険心をくすぐられる」と述べた[ 78] 。ワールドカップ前に明らかとなったため、タブロイド はロブソンの愛国心について疑問を呈し、『トゥデイ』は裏切り者だと酷評した[ 5] 。
オランダ人の戦術に対する議論を好む姿勢はロブソンを驚かせ、オランダのサッカー専門誌『フェトバル・インターナショナル』のインタビューでは、「イギリス人選手は監督の決定を受け入れるが、ここではすべての試合の後に控えに回された選手が私に会いに来る。」と嘆いた[ 79] 。また、PSVにはブラジル代表 のロマーリオ が在籍しており、ロブソンは試合中に見せる素晴らしいプレイは認めていたが、サッカーに取り組む姿勢については不満を抱いていた[ 80] 。アシスタントコーチのフランク・アルネセン に通訳の役割を頼み、話し合いの場を設けたが、ロマーリオは自身のライフスタイルを変えたがらなかった[ 81] 。それでもPSVは1990-91シーズンと1991-92シーズンとリーグ戦で2連覇を果たしたが、ヨーロッパの大会では期待された以上の成果を出せず、ロブソンは1991-92シーズン終了後にクラブを去ることになると悟っていた[ 82] 。
1992年7月にスポルティングCP の監督に就任し、ポルトガル語の通訳 は、将来的にFCポルト 、チェルシー 、インテル 、レアル・マドリード で監督を務めることになる若きジョゼ・モウリーニョ が担った。就任1年目のシーズンは3位で終了したが、クラブ内の状況は良くなく、ロブソンが興味を持っていない選手と契約をすることが多かったため、ロブソンは会長を「問題児」だと述べた[ 83] 。1993年12月、チームはリーグ戦で首位を走っていたが、ロブソンは監督を解任された。会長であったソウザ・シントラ は、カジノ・ザルツブルク に敗れ、UEFAカップ で早期敗退したことが解任の理由だと述べた[ 14] 。
スポルティングのライバルであるFCポルト はすぐにロブソンに接触し、モウリーニョはアシスタントコーチに指名された。同じアパート群に住んでいた当時16歳のアンドレ・ビラス・ボアス (将来FCポルト、チェルシー、トッテナム・ホットスパー で監督を務めることになる)はロブソンに自身を売り込み、ロブソンはその後ポルトの分析を行う部門で働けるよう手配し、17歳と技術的に未熟であるにも関わらず、スコットランドでUEFAのCライセンスが取得できるよう手助けをした[ 84] 。監督に就任した当時のポルトは貧しく、平均観客動員数は1万人にまで下がっていたが[ 85] 、タッサ・デ・ポルトガル の決勝に進出し、ロブソンが監督を務めていたスポルティングを破り、タイトルを獲得した[ 12] 。翌1994-95シーズンはリーグ 戦で優勝し、1995-96シーズンには連覇を達成した[ 86] 。
ポルトで実績を残し、5-0で勝つ試合が何度もあり、地元では「ボビー・ファイブ・オー」と讃えられ[ 87] 、1995年にはクラブと新たな契約を結んだ[ 87] 。悪性黒色腫 の影響により、1995-96シーズンの始めの5ヶ月は監督業から一時離れたが、リーグタイトルの防衛には成功した[ 88] 。ロブソンが去った後、クラブはリーグ戦で3連覇を達成することになるが、その礎を築いたのはロブソンであると言って差し支えなかった。
1996年の夏、FCバルセロナ の副会長であったホアン・ガスパルト からルイス・フィーゴ のことについて電話を受けたが、結果的に監督就任のオファーを受けた[ 89] 。1996年7月に監督に就任したが、モウリーニョのアシスタントコーチ起用を条件に挙げ、再び一緒に仕事をすることになった[ 88] 。短い監督就任期間中にロブソンが下した重要な決定の一つは1950万ドルで獲得したロナウド との契約であり、コパ・デル・レイ 、スーペルコパ・デ・エスパーニャ 、UEFAカップウィナーズカップ のタイトル獲得に大きな影響を与えた[ 90] 。ロブソンは1996-97シーズンのヨーロッパ最優秀監督に投票で選ばれ、ロナウドは、「疑うまでもなく世界で最も優れた監督の一人だ。」と称えた[ 91] 。
1997-98シーズンはルイ・ファン・ハール が監督に就任し、ロブソンはゼネラルマネージャーに押し上げられた[ 12] [ 92] 。しかし、そのポストには1シーズンしか残らず、1998-99シーズンにはPSVと短期間の契約を結んだ[ 93] 。リーグ戦ではフェイエノールト 、ヴィレムII の後塵を拝したが[ 94] 、ヨハン・クライフ・スハール では優勝し、最終戦を終え3位に着けたため、チャンピオンズリーグの予備予選への出場権も獲得した[ 95] 。
イングランド復帰
2007年 3月29日 にクローク・パーク で行われたアイルランド代表対スロバキア代表 戦に姿を見せたロブソン
契約満了後、ロブソンはFAの技術部門のポストに着きイングランドへと戻った[ 7] 。そして、1999年9月、ルート・フリット がニューカッスル・ユナイテッド の監督を辞任すると、後任として監督に就任した。当初はニューカッスルのオファーが相場よりかなり低くロブソンは落胆したが、交渉の末、年俸100万ポンドで契約がまとまった[ 96] 。
最初のホームゲームは最下位に位置していたニューカッスルの1つ上の順位にいたシェフィールド・ウェンズデイ 戦であったが、8-0と一蹴した。指揮を執った最初の1999-2000シーズン は指揮した32試合で14勝を挙げ11位で終えた[ 96] [ 97] 。2000年10月にケビン・キーガン がイングランド代表の監督を辞任するとFAはニューカッスルの会長であったフレディ・シェパード にロブソンが暫定的に指揮を執ることが可能か尋ねたが、シェパードはそれを断った[ 98] 。2001-02シーズン はリーグ戦で4位に入り[ 99] 、翌シーズンは3位に着け、2シーズン連続でチャンピオンズリーグ の出場権を獲得したが[ 100] 、2003-04シーズン はチャンピオンズリーグの本選に進むことができず、UEFAカップ に回った。リーグ戦では4位に5ポイント届かず5位に終わったが、UEFAカップではマルセイユ に敗れたものの準決勝に進出した[ 101] 。
2004年 8月30日 、プレミアリーグ での開幕からの躓きと選手からも不満が噴出し、ロブソンは監督を解任された[ 102] 。ロブソンの失望は前シーズン終了時のセント・ジェームズ・パーク でのファンへの挨拶回りの際に5,000人しか残っていなかった惨状に続くものであった[ 103] 。しかし、ロブソンは今でもファンからは高い評価を受けており、2005年 3月2日 にはニューカッスル・アポン・タイン の自由民の名誉を授かった[ 104] 。
「クラブとは一体何だろうか?建物や役員、選手たちではない。テレビ放送の契約やマーケティング部門、免責条項、エグゼクティブシートにはない。それは歓声や情熱、帰属意識、その街に対するプライドである。クラブとは小さな子どもが初めて父に手を引かれ、階段を上り目の前に広がる神聖なピッチを見下ろせば、ぽかんと口を開けて何もできないまま恋に落ちずにはいられないものである。」
[ 105]
2005年に自叙伝『Bobby Robson: Farewell but not Goodbye』が出版され[ 106] 、タイトルは1990年に代表監督の仕事から離れる際に言った「私はお別れを言うためにここにいる。さようならだが、きっとさようならではない。」という言葉から引用された[ 107] 。その本の中ではシェパードについて、選手の契約や移籍交渉についての情報を与えてくれなかったとして批判的であり、また、シェパードと会長代理を務めたダグラス・ホールはトップチームとスタジアム以外の練習場やユースの育成、発掘について消極的であったことを非難した[ 108] 。練習場の環境についてはロブソンの後任であるグレアム・スーネス もトップチームに怪我人が続出したことから非難をした[ 109] 。
サッカーコンサルタント
2005年 6月7日 、ハーツ からフットボールダイレクター就任のオファーを受けたが、ニューカッスル近辺に留まりたかったために断った[ 110] 。2006年 1月13日 、アイルランド代表 が監督にスティーヴ・ストーントン が任命され、サポート役としてロブソンが顧問に就いたが[ 111] 、EURO 2008 の出場権を逃した2007年 11月17日 にポストを退いた[ 112] 。また、ロブソンはリーグ監督協会の副会長を務めていた[ 113] 。
サッカー以外での生活
パーソナルライフ
ロブソンはエルシー・グレイと実家に帰省している際に出会った[ 5] 。彼女は当時看護学生であり、後に教師になった[ 5] 。1955年に結婚し、フラムのチームメイトであったトム・ウィルソン がベストマンを務めた[ 114] [ 115] 。1991年からがんを患っていると診断を受け、手術を繰り返し、2006年には脳腫瘍の手術を受けた[ 116] 。病気は監督業にも影響を与え、FCポルト の監督を務めていた1995-96シーズンには悪性黒色腫 を患ったため数ヶ月チームを離脱した[ 117] [ 118] 。
2006年 10月17日 にアイルランド代表の顧問を引き受けた際にはすべて克服したと話したが[ 119] 、2007年 5月17日 に5度目のがんの診断を受けたことを明かした[ 120] 。2008年 5月17日 に行われたFAカップ 決勝にはウェンブリー・スタジアム に来賓として招待され、ポーツマス のキャプテンであったソル・キャンベル にトロフィーを手渡した。
その他の活動
カールスバーグ のコマーシャル出演などロブソンはいくつかの宣伝に起用された[ 121] 。2002 FIFAワールドカップ とEURO 2004 ではITV で解説者を務め[ 122] 、2004年にブライアン・クラフ が亡くなった後は『フォーフォーツー 』で後任としてコラムを担当し、『ザ・メール・オン・サンデー』でも毎週コラムを執筆していた。
ボビー・ロブソン基金
ロブソンは1992年に大腸がん 、1995年には悪性黒色腫、2006年には右の肺と脳の腫瘍と何度も病気と闘ってきた。脳腫瘍に起因する脳卒中では体の一部に麻痺 が残り、悪性黒色腫を取り除いた後には上あごに人工骨が埋め込まれた。2007年に5度目のがんが両方の肺に見つかり、化学療法 で治療を行っていたが、2007年に末期症状 と診断された。このような経験から、5度目のがんの診断を受けた後にロブソンは残りの人生を病気と闘う人たちのために捧げることを決心し、2008年 3月25日 にサー・ボビー・ロブソン基金 を設立した[ 123] 。集めたお金はサー・ボビー・ロブソンがん研究センターの設備投資やニューカッスル・アポン・タインにあるフリーマン病院、イングランド北東部で行われるがんに関するプロジェクトに投資され続けている[ 124] [ 125] 。
2009年 7月26日 には活動の一環として1990 FIFAワールドカップ 準決勝のリターンマッチがセント・ジェームズ・パーク で行われ、試合には当時のオリジナルメンバーとゲストが集まった。ロブソンは試合前に儀仗兵による栄誉礼 を受けた[ 126] 。
ロブソンが亡くなった時点で基金は160万ポンドを集めていたが、死後18日間の間に156,000ポンドの寄付が集まった。2009年 10月15日 には200万ポンドを突破し、家族の要望によりアラン・シアラー がロブソンの後を継ぐことが併せて発表された。2010年にはスティーヴ・ギブソン 、ミック・マイルズ 、ナイアル・クイン が後援者に加わった[ 127] [ 128] 。
死去
2009年 7月31日 、ロブソンはダラムにある自宅で長い闘病生活の末に肺がんのため亡くなった[ 129] 。76歳であった。訃報が流れるとサッカー界や政界の多くの人たちから哀悼のコメントが寄せられた。マンチェスター・ユナイテッド で監督を務めていたアレックス・ファーガソン は、「大切な友人で、彼ほどサッカーへ情熱を傾けた人物はいなかった。」と話し[ 130] 、ともに仕事をしたジョゼ・モウリーニョ は、「ボビー・ロブソンは永遠だ。」と話し[ 131] 、UEFA の会長を務めるミシェル・プラティニ は、「選手としても監督としても素晴らしい結果を残したことだけではなく、本当に温かみがあり情熱的な人物として記憶されるだろう。」と話した。ゲーリー・リネカー は、「悲しい日であり、大きなものを失ってしまった。彼は本当に素晴らしい人物であり、すべての国民が悲しみに暮れるだろう。彼より情熱的な人物の下でプレイしたことはなかった。彼は試合に多くの影響を与えた。」と話し[ 1] 、トニー・ブレア 元首相は、サー・ボビーは「本物のイギリス紳士」だと称えた[ 132] 。当時首相であったゴードン・ブラウン は、ロブソンは「この国のサッカーの素晴らしい面をすべて示している」と話した[ 132] 。
2009年 8月5日 に葬式は近親者のみで執り行われ、家族の意向により会場は式が終わるまで明らかにされなかった[ 133] 。2009年 9月21日 にダラム大聖堂 でお別れの会が催され、1,000人が招待された。その模様は全国に中継され、ニューカッスルのセント・ジェームズ・パーク 、イプスウィッチのポートマン・ロード 、フラムのクレイヴン・コテージ でも流された[ 134] 。ロブソンは妻と3人の息子、アンドリュー、ポール、マークを残して先立った[ 6] [ 135] 。
名声
ロブソンはサッカーに対する貢献から数多くの栄誉を与えられている。1990年に8年間の代表監督を終えた後にはCBE を受勲し、2002年にはナイト を叙された。この二つはともに監督での功績に対して与えられた[ 136] 。
ニューカッスルの監督を務めていた2002年にはニューカッスル・アポン・タイン の自由民の栄誉を授かり、サッカーに対する貢献からUEFA 会長賞が贈られた[ 14] [ 24] 。2003年には監督としての功績が評価され、イングランドサッカーの殿堂 入りをした[ 137] 。ロブソンは2005年に出版した自叙伝の中で、ニューカッスルの自由民の栄誉を授かったことが「これまでの人生の中で最も誇らしい瞬間」だったと述懐している[ 104] [ 138] 。1992年にはサッカー記者協会から感謝賞が贈られ[ 139] 、2001年にはイギリスの記者協会から優れた業績に対してパット・ベストフォード賞が与えられた[ 135] 。2005年にはその生涯に対してSports Coach UK賞が贈られ[ 140] 、2006年にはFAI インターナショナル・スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤーを受賞した[ 136] 。2007年 12月9日 には「選手、監督して半世紀以上にも渡る貢献」に対してBBC スポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤー の生涯功労賞が贈られた[ 141] 。
2008年 5月5日 、イプスウィッチ・タウン のFAカップ獲得から30周年を記念した式典の中でイプスウィッチ の女性市長から自由民の栄誉が与えられた[ 142] 。2008年 12月8日 にはダラム からも自由民の栄誉が贈られた[ 143] 。2009年3月には「サッカーの試合に自身を捧げ良い影響を与えた」としてUEFAのメリット勲章 に選ばれ、死去の5日前にセント・ジェームズ・パーク で行われたチャリティマッチの際にロブソンに贈られた[ 126] 。
死後の栄誉
セント・ジェームズ・パーク に立つロブソンの銅像
2009年12月、「選手、監督として見せた素晴らしい姿勢」に対してFIFAフェアプレー賞 が贈られた。2009-10シーズンにはすべてのイングランドで行われたリーグの開幕戦の際に1分間の黙祷 (ロブソンの場合スタンディングオベーション)が捧げられた[ 5] 。
サー・ボビー・ロブソン基金に対する援助のため、フットボールリーグ は2009年 9月26日 にポートマン・ロードで行われたチャンピオンシップ のニューカッスル・ユナイテッド対イプスウィッチ・タウン戦の際に特別仕様のユニフォームを着ることを許可した[ 144] [ 145] 。ハーフタイムにはポートマン・ロードの北側のスタンドがサー・ボビー・ロブソン・スタンドと名付けられたことが発表された[ 146] 。
ロブソンの一周忌にはセント・ジェームズ・パークでニューカッスル・ユナイテッドとPSVアイントホーフェンの親善試合が行われ、試合前にはロブソンのPSV監督時代のキャプテンであるスタン・ファルクス がニューカッスルにユニフォームを贈った[ 147] 。
2010年7月、市議会と都市再生に取り組む会社NE1 Ltdが提携し、セント・ジェームズ・パークに近いガロウゲート通りにロブソンの記念公園を造る計画が発表された。公園は400平方メートルの広さで2011年の春に完成する予定で、2010年11月に工事が始まった[ 148] [ 149] 。
2011年3月に鉄道管理会社であるイースト・コーストはクラス91型の電車の1台にサー・ボビー・ロブソンと名付けることがエルシー夫人とアラン・シアラー 立会いの下、ニューカッスル中央駅で発表された[ 150] 。2012年 5月6日 に彫刻家トム・マレイによる制作でロブソンの銅像が建立されることが明らかとなり、2013年 7月16日 に披露された[ 151] 。
監督成績
揮を執ったクラブの順位 (フルシーズン指揮を執っていないシーズンも含む)
チーム
就任
退任
記録
試合数
勝ち
分け
負け
勝率
フラム
1968年1月
1968年11月
7001360000000000000♠ 36
7000600000000000000♠ 6
7000900000000000000♠ 9
7001210000000000000♠ 21
0 7001166700000000000♠ 16.67
イプスウィッチ・タウン
1969年1月
1982年8月
7002709000000000000♠ 709
7002316000000000000♠ 316
7002173000000000000♠ 173
7002220000000000000♠ 220
0 7001445700000000000♠ 44.57
イングランド代表
1982年7月
1990年7月
7001950000000000000♠ 95
7001470000000000000♠ 47
7001300000000000000♠ 30
7001180000000000000♠ 18
0 7001494700000000000♠ 49.47
PSV
1990年7月
1992年6月
7001760000000000000♠ 76
7001520000000000000♠ 52
7001170000000000000♠ 17
7000700000000000000♠ 7
0 7001684200000000000♠ 68.42
スポルティングCP
1992年7月
1993年12月
7001590000000000000♠ 59
7001340000000000000♠ 34
7001130000000000000♠ 13
7001120000000000000♠ 12
0 7001576300000000000♠ 57.63
ポルト
1994年1月
1996年7月
7002120000000000000♠ 120
7001860000000000000♠ 86
7001230000000000000♠ 23
7001110000000000000♠ 11
0 7001716700000000000♠ 71.67
バルセロナ
1996年7月
1997年5月
7001580000000000000♠ 58
7001380000000000000♠ 38
7001120000000000000♠ 12
7000800000000000000♠ 8
0 7001655190000000000♠ 65.52
PSV
1998年7月
1999年6月
7001380000000000000♠ 38
7001200000000000000♠ 20
7001100000000000000♠ 10
7000800000000000000♠ 8
0 7001526300000000000♠ 52.63
ニューカッスル・ユナイテッド
1999年9月
2004年8月
7002255000000000000♠ 255
7002119000000000000♠ 119
7001640000000000000♠ 64
7001720000000000000♠ 72
0 7001466700000000000♠ 46.67
トータル
7003144600000000000♠ 1,446
7002718000000000000♠ 718
7002351000000000000♠ 351
7002377000000000000♠ 377
0 7001496500000000000♠ 49.65
獲得タイトル
選手時代
監督時代
クラブ
イプスウィッチ・タウンFC
イングランド代表
PSVアイントホーフェン
FCポルト
FCバルセロナ
個人
脚注
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^ Sir Bobby shirts raise thousands
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^ Ipswich to unveil 'Sir Bobby Robson Stand' when Town take on his beloved Newcastle United
^ Sir Bobby remembered one year on since his death
^ Sir Bobby Robson's Tyneside garden tribute
^ Work starts on a memorial garden to Sir Bobby Robson
^ EAST COAST NAMES TRAIN SIR BOBBY ROBSON
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外部リンク