アウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクス
アウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクス(ラテン語: Aulus Manlius Torquatus Atticus)は紀元前3世紀のパトリキ出身の共和政ローマの政治家、軍人。 経歴紀元前247年にアウルス・アティリウス・カラティヌスと共にケンソル(監察官)に就任した後[1]、紀元前244年と紀元前241年の二度、執政官(コンスル)に選出されている。 紀元前244年の同僚執政官はガイウス・センプロニウス・ブラエスス[2]、紀元前241年の同僚執政官はクィントゥス・ルタティウス・ケルコであった[3]。紀元前241年、ローマは20年以上も続いていた第一次ポエニ戦争に勝利した。しかし、そのすぐ後に、ファリスキ人(en)が反乱を起こし、鎮圧のために二人の執政官が派遣された。緒戦でローマの歩兵部隊が敗北したもののファリスキの騎兵も壊滅した。続く戦いでローマは勝利し、結局6日間で鎮圧された。反乱者は厳しく罰せられた[4]。山中の要害にあったファリスキ人の都市ファレリー(en)は破壊され、麓に再建された(現在のチーヴィタ・カステッラーナ)[5]。このファリスキ族鎮圧の功績のために、アティックスは凱旋式を実施する栄誉を得た。 第一次ポエニ戦争の勝利を機に、共和政ローマの歴史の中でこの一回だけであるが、ヤヌス神殿の扉を一時的に閉じた(ヤヌスの扉は戦時には開けられ、平時に閉じられることとなっていたが、これ以前は王政時代も含め400年に渡って開けられたままであった。今回も8年後に再び扉は開けられ、次に閉じたのはアウグストゥスであった)。しかし、初期のローマ年代記編者は、この行いを紀元前235年と紀元前224年の執政官であるティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスのものと誤って記録している[6]。 大プリニウスは、アッティクスが食事中に急死したと述べている[7]。しかしながら、歴史家のフリードリヒ・ミュンツァー(en)によれば、これは彼ではなく、紀元前164年の執政官であるアウルス・マンリウス・トルクァトゥスのことであるとされている[8]。 脚注
参考資料
関連項目
|
Portal di Ensiklopedia Dunia