クィントゥス・ルタティウス・ケルコ
クィントゥス・ルタティウス・ケルコ(ラテン語: Quintus Lutatius Cerco、紀元前236年没)はプレブス出身の共和政ローマの政治家、軍人。 出自プレブス(平民)であるルタティウス氏族の出身。父も祖父もプラエノーメン(第一名、個人名)はガイウスである。前年紀元前242年の執政官であるガイウス・ルタティウス・カトゥルスは、ケルコの兄である。 経歴紀元前241年にアウルス・マンリウス・ティトゥス・トルクァトゥス・アッティクスと共に執政官(コンスル)に選出された[1]。 兄のカトゥルスはアエガテス諸島沖の海戦での勝利の後、カルタゴと講和のために事前交渉を開始した。ローマは、事前交渉での取り決めに加え、新たな条件を追加することで、これを受諾することとした。この第一次ポエニ戦争終結のために講和交渉を完了させるために、ローマ元老院は交渉団をカルタゴに派遣したが、ケルコがこの代表として交渉団を率いた。 この少し後、ファリスキ人(en)が反乱を起こし、鎮圧のために二人の執政官が派遣された。緒戦でローマの歩兵部隊が敗北したもののファリスキの騎兵も壊滅した。続く戦いでローマは勝利し、結局6日間で鎮圧された。山中の要害にあったファリスキ人の都市ファレリー(en)は破壊され、麓に再建された(現在のチーヴィタ・カステッラーナ)[2]。この功績のためにケルコは凱旋式を実施する栄誉を得たが、その返礼としてユートゥルナ神殿を寄贈している。 第一次ポエニ戦争での勝利によって、シケリア(シチリア)はローマの最初の属州であるシキリア属州となった。ケルコは、属州の統治組織を作り上げる仕事に従事した。紀元前236年にはケンソル(監察官)に選出されたが、その任期中に没した。 脚注参考資料
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