マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ
マニウス・ウァレリウス・マクシムス・メッサッラ(ラテン語: Manius Valerius Maximus (Corvinus) MessalaもしくはMessalla、生没年不明)は共和政ローマ中期の政務官。紀元前263年の執政官に選出され、第一次ポエニ戦争初期を戦った。 経歴紀元前289年の執政官であるマルクス・ウァレリウス・マクシムス・コルウィヌスの子であり、伝説的な英雄であるマルクス・ウァレリウス・コルウスの孫にあたる。同僚執政官であるマニウス・オタキリウス・クラッススと共に、第一次ポエニ戦争開戦直後にシケリア(シチリア)でカルタゴとシュラクサイを相手に勝利を収め、60以上のシケリアの殖民都市がシケリアにおけるローマの優位性を認めることとなった。両執政官はシュラクサイの僭主ヒエロン2世と平和条約を結び、ヒエロンの存命中はこの条約は守られた[2]。この条約はローマ、シュラクサイ双方に利益をもたらすものであった。マニウスのみが凱旋式を挙行することを許されている。 彼がメッセネ(現在のメッシーナ)の解放に成功したことを称えて、メッサッラのコグノーメン(第三名)が与えられた。その後800年にわたって、彼の一族はこの名前を名乗り続けていた。シケリアにおける彼の勝利を記念して、クリア・ホスティリア(元老院議事堂)の壁に絵が描かれたが、これはローマにおける歴史フレスコ画の最初の例となった。彼はまたカタナ(現在のカターニア)から日時計を持ち帰った最初の人物とされ、これはフォルム・ロマヌムに設置された。 紀元前252年、プブリウス・センプロニウス・ソプスと共にケンソル(監察官)に選出されたが、400人のエクィテス(騎士階級)をシケリアでの任務を無視したとして降格させている[3]。 出典参考資料
関連項目
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