わが愛の譜 滝廉太郎物語
『わが愛の譜 滝廉太郎物語』(わがあいのうた たきれんたろうものがたり)は、1993年公開の日本映画[1][2]。「荒城の月」「花」などの名曲で知られ、ピアノ曲『憾』を遺して僅か23歳の生涯を閉じた音楽家・瀧廉太郎の没後90年を記念して製作された[2][3][4]。原作は詩人で文芸評論家の郷原宏『わが愛の譜 滝廉太郎物語』(新潮文庫)。 ストーリー
キャスト
スタッフ
製作企画企画は東映宣伝部長・福永邦昭[3]。1991年の『福沢諭吉』のロケを大分県で行った際、当時の平松守彦大分県知事が「うちの県にはもうひとり、有名な偉人がいる。ぜひ映画に」と福永に滝廉太郎の映画化を要請した[3]。自身もトロンボーンを演奏する福永は『福沢諭吉』の監督でクラシック音楽に造詣の深い澤井信一郎に相談[3]、澤井から「会社を説得するにはタマ(金)次第だ」とアドバイスを受けた[3]。1993年はちょうど滝の没後90年にあたるため、創業90年を迎える企業を調べ上げて大和証券を見つけ、同社の協賛を仰ぎ、タマによる観客動員とパブリシティーを前提にしたメディア戦略を組み立て、福永自ら大和証券経営陣と岡田茂東映会長とのトップ会談をセッティングし共同製作での合意に成功したが[3]、直後に大和証券内部の不祥事で実現には至らなかった。それでも予定通り大量の前売り券を買ってもらった。共同製作がポシャり、映画化も危ぶまれたが、当時では珍しい「製作委員会」を発足させ、日本テレビと提携、読売新聞やTOKYO FM等からの出資を引き出し、製作に漕ぎつけた[3]。 本企画が製作に至った背景としては、お金の問題以外にも1992年の第43回NHK紅白歌合戦でトリを務めた由紀さおり・安田祥子姉妹コンビの「日本の唄」コンサートが入場料5,000円と当時としては高額ながら毎回超満員で、静かなブームを呼び[2]、殺到する聴衆の大半は40~50代の主婦層で、旧き良き日本の歌曲が改めて再発見されているという現象があり、40~50代の主婦層をターゲットに製作が決まった[2]。本作の売りは"日本のこころ"である[2]。22年間東映社長を務めた岡田茂に代わり、1993年6月29日に後任社長に就任した高岩淡の第一回社長プロデュース作となり[2]、当時は映画業界自体が未曽有の危機的状況にあったが[2]、製作費6億5,000万円[2]、総原価10億円以上をかけ[2]、高岩新社長の登場で東映全体で国民映画に仕立て上げた[2]。 脚本澤井信一郎監督は演出にあたり「滝廉をめぐる巷間伝わるエピソードは一切排除して、生涯の事実だけをたどりながら、音楽人として直截的にまた直感的に感じたもの、見たもの、そしてピアノを弾奏する真っ直ぐな姿を浮かび上がらせたいとシナリオを書き、映画を撮りました」などと話した[2]。 撮影1993年5月21日、大分県竹田市ロケからクランクイン[2]。当地は滝が12歳から3年間過ごした街[2]。平松県知事もロケ現場に駆け付け、大勢の市民も見学に訪れた[2]。地元九州の各新聞は社会面のトップに扱う力の入れようだった[2]。 滝廉太郎を演じる風間トオルも中野ユキを演じる鷲尾いさ子もピアノに馴染みがなく1ヶ月ぶっ続けで特訓を受け、2人とも腱鞘炎になり指先からは血が出るほど練習させられ[2][3]。 ドイツロケは1993年5月28日から6月12日まで行われたが、撮影許可は10日間しか降りなかった[2]。ロマンティック街道の小都市を精力的に駆け巡り、7万尺(約13時間分)のフィルムを回した[2]。ドイツロケの詳細は同年7月25日に『知ってるつもり?!』(日本テレビ)の特集番組で放送された[2]。また演奏シーンはライプツィヒ・ライプツィヒ歌劇場などで[2]、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の楽団員による特別編成のオーケストラの協力を仰ぎ撮影が行われた[3][4]。 1993年7月10日、東映京都撮影所でクランクアップ[2]。 宣伝・興行当時の東映の大作は毎回前売り券販売に駆け回るというのが現状で[2]、高岩東映社長は「当節としては真面目な地味なシャシンで、お客サンを映画館に連れて来るのがシンドイ」と本音も漏れたが[2]、提携製作の日本テレビが全国県庁所在地48都市で日テレ主催の試写会を開催し、3万人を動員。またこの年の『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』でも随所に作品をアピール、読売新聞も特集記事を掲載するなど全面支援を行った[2]。また9月の新学期を迎えて学校動員をアプローチし、全日本音楽教育研究会を通じて、小中学校の動員上映を要請した[2]。1993年8月21日から全国東映邦画系劇場150館で封切(7週上映)[2]。 作品の評価作品評
脚注
外部リンク |