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日語原文 | 清原 元輔 |
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假名 | きよはら の もとすけ |
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平文式罗马字 | Kiyohara no Motosuke |
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清原元輔(日语:清原 元輔/きよはら の もとすけ Kiyohara no Motosuke,908年—990年)是平安時代中期的歌人、官吏。内蔵允清原深養父之孫[1]、下総守清原春光之子[2]。其女为清少納言。梨壶五人、三十六歌仙中的一员。官位为从五位上肥後守。
生平
曾参与《万葉集》的标注工作,并且参加《後撰和歌集》的编纂。
官历
和歌
个人歌集为《元輔集》。连同《拾遺和歌集》等勅撰和歌集中約有106首入集。
ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは
嚮日山盟誓,互濕衣袖勿毁约,然末了松山依舊遭浪襲
“
”
《百人一首·42》
系譜
- 父:清原春光[1]
- 母:高向利生の娘
- 妻:不詳[3]
- 子:清原為成(?-1025)
- 子:戒秀(?-1015)
- 子:清原致信(?-1017)
- 女:清少納言
- 女:藤原理能室
脚注
- ^ 1.0 1.1 元輔の父を深養父とする説もある。
- ^ 父の名を「顕忠」とする系図もあるが、藤原元輔の父・藤原顕忠と混同した誤りと考えられている。
- ^ 『檜垣嫗集』の詞書より「周防命婦」と呼ばれる夫人の存在が示唆されている。元輔に周防守の経歴が在ることよりこの女房名が与えられたものとも推測されるが、経歴は未詳。
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