J.R.ヒルデブランド
ジョン・R・ヒルデブランド・ジュニア (John R. Hildebrand Jr.、1988年1月3日 - ) は、アメリカ合衆国のレーシングドライバー。現在はIZOD インディカー・シリーズにパンサー・レーシングより参戦している[1]。ニックネームは「キャプテン・アメリカ」。彼は2011年のインディ500において最終周までトップを快走したものの、ターン4で外壁に接触し、最後の200ヤードでダン・ウェルドンに抜かれ2位になったことでよく知られる。また、ちょうど一ヶ月後にダン・ウェルドンが死亡したラスベガス・モーター・スピードウェイの大クラッシュで負傷した。 経歴初期の経歴ヒルデブランドは14歳のときにカートを始め、インフィニオン・レースウェイでジム・ラッセル・アライヴ・アンド・ドライヴ・チャンピオンシップに参加、その年に最初のレースだけで無く選手権にも勝利した。2003年にはジュニア80ccシフタークラスに参加、シリーズ2位となり同年末にジム・ラッセル・グラデュエイト・ランオフズを獲得、カートから本格的な4輪に参戦、2004年はフォーミュラ・ラッセルに参戦した。彼は選手権シリーズに勝ち続け、レッドブル・ドライバー・サーチに参加した。2005年にはパシフィックF2000に参加し、シリーズ2位となりルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得、チームUSAスカラーシップに選ばれ、フォーミュラ・パーマー・アウディ・オータムトロフィーにも参加、3位となる。2006年にはU.S.F2000ナショナル・チャンピオンシップに参戦、14戦中12戦に勝利しシリーズを支配した。 2006年の印象的な戦績でヒルデブランドはゴースライン・スカラーシップを得、AARWBA オールアメリカン・オートレーシング・ファーストチームに選出された。 アトランティック・チャンピオンシップおよびインディ・ライツ2007年、ヒルデブランドはニューマン・ワックス・レーシングに加入、チャンプカー・アトランティックに参戦した。シーズンランキング7位となり、これはアメリカ人ルーキーで最上位であった。シーズン終盤にはRLR-アンダーセン・レーシングからインディ・プロ・シリーズの2戦に参戦した。翌2008年はRLR-アンダーセンからインディ・ライツへと改名した同シリーズにフル参戦する[2]。4戦目のカンザスで初勝利を挙げ、同年はランキング5位でシーズンを終えた。 2009年、彼はディフェンディングチャンピオンチームのAGR-AFSレーシングと契約を交わす[3]。シーズンでは5度のポールポジション、4勝を挙げ、結局14戦目のシカゴランドでタイトルを獲得した。同年彼はブランズ・ハッチで行われたA1グランプリの最終戦にA1チーム・アメリカから参戦し4位を得た。彼は再びAARWBA オールアメリカン・オートレーシング・ファーストチームに選出された。 アメリカン・ル・マン・シリーズアメリカン・ル・マンシリーズに参戦しているジェノア・レーシングがヒルデブランドと契約、彼は2010年のアメリカン・ル・マン・シリーズ、LMPCクラスに同チームから出場した。彼はセブリング12時間とロングビーチ・グランプリに参戦した。 フォーミュラ12009年12月、ヒルデブランドはヘレス・サーキットで行われたフォース・インディアの3日間のテストに参加した。このテストで彼はポール・ディ・レスタとマシンを分け合った[4][5][6]。 インディカーヒルデブランドは2010年にインディカー・シリーズにデビュー、負傷したマイク・コンウェイの代役としてドレイヤー&レインボールド・レーシングから2戦に参加した。2010年12月14日、ヒルデブランドはパンサー・レーシングと複数年の契約を交わし、ナショナル・ガードのスポンサーを受けた4番車で2011年のインディカー・シリーズにフル参戦することが発表された[7]。 このシーズンのインディ500では、ファイナルラップのターン3までトップを快走しながら、ルーキー優勝の大偉業目前の最後のターン4でクラッシュを喫してしまう。惰性でチェッカーを受けるも2位に終わり、大偉業を逃した。このことや、その後のレースでまたしてもターン4でクラッシュしたことが切っ掛けでそれ以降「ミスター・ターン4」というありがたくない二つ名を頂戴することになってしまった。
記録アメリカン・オープンホイールアトランティック・チャンピオンシップ
インディ・ライツ
インディカー・シリーズ
インディ500
A1グランプリ(key) (太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
アメリカン・ル・マン・シリーズ
参照
外部リンク
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