1992年の中日ドラゴンズ
1992年の中日ドラゴンズ(1992ねんのちゅうにちドラゴンズ)では、1992年の中日ドラゴンズにおける動向をまとめる。 この年の中日ドラゴンズは、高木守道監督の1年目のシーズンである。 概要星野仙一から高木守道に監督が交替。一軍監督は1986年の山内一弘の途中辞任を受け代理監督を務めて以来。 コーチングスタッフも大幅に入れ替え。さらに落合博満のトレードを断行しようとしたが、絶対的存在だとしてオーナーに拒絶される。 星野時代にトレードで移籍してきた選手が、起用されなくなったり、二軍落ちするなど、戦力も前年から大幅にかわる。開幕戦で開幕投手の郭源治が4回途中に脹脛に痙攣を起こし65球で降板、また3番打者として7回に決勝本塁打を打った立浪和義も太ももの故障で戦列を離脱し、いきなり投打の主力を失う異常事態。さらに開幕3連勝と好調だった今中慎二も4月19日の巨人戦で打球が左手首を直撃し骨折、長期離脱を余儀なくされる。それでも6月上旬までは勝率5割前後と健闘していたが、6月中旬に4連敗を喫するとこの月9勝13敗と徐々に成績が下降、7月には落合の腰痛による登録抹消が響きついに最下位に転落し、8月にも9連敗・6連敗と負けが込み7勝17敗の借金10で5位大洋に引き離される。8月末にようやく今中がローテーションに復帰し、チームも9月に6連勝を記録したが時すでに遅く10月6日に12年ぶりの最下位が確定。この年は2位阪神に12勝14敗と健闘するも、優勝のヤクルトには10勝16敗、また巨人には途中まで7勝1敗だったのが6月7日以降は4勝14敗と大負けし、巨人が最下位から上位に浮上する要因となった。投手陣は山本昌広が13勝、スコット・アンダーソンと小松辰雄が9勝をあげるも郭は故障の影響で4勝に終わり、20勝経験者の西本聖はわずか1勝に終わるなどの誤算でチーム防御率は3.91の最下位。打撃陣は落合、立浪、大豊泰昭など故障者続出で満足にオーダーが組めずチーム本塁打は108本のリーグ4位にとどまり[2]、盗塁数は広島と53個差の4位に終わった。 オフにはトレードが出来ない落合の代わりに人気選手だった宇野勝と長嶋清幸がロッテへトレードされた。 チーム成績レギュラーシーズン
オールスターゲーム1992→詳細は「1992年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
選手・スタッフ表彰選手
ドラフト→詳細は「1992年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照
脚注注釈出典
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