1991年のオリックス・ブルーウェーブでは、1991年のオリックス・ブルーウェーブにおける動向をまとめる。
この年のオリックス・ブルーウェーブは、本拠地が西宮市から神戸市に移った後初めて迎えるシーズンであり、土井正三監督の1年目のシーズンである。キャッチフレーズは「CATCH THE Blue Wave DREAM」。
チーム名がブレーブスからブルーウェーブに、本拠地が西宮球場からグリーンスタジアム神戸に、監督が上田利治から土井正三にそれぞれ変わり、さらにドラフト1位ルーキーの長谷川滋利に往年の阪急のエース山田久志の背番号17を与えるなど急速に阪急色の一掃を図るが、土井新監督の下、優勝を期待されたチームは開幕5連敗で最下位に転落すると4月下旬にも6連敗。5月3日にサヨナラ2ランを打った藤井康雄がお立ち台で「オリックスはこんな弱いチームじゃありません!」と泣きながら訴えたが、チームはその後も8連敗で借金は16まで膨らみ、長谷川も打線の援護に恵まれず6連敗と苦しんだ。6月に入り6月5日に長谷川がようやくプロ初勝利を挙げると、チームもそこから上昇気流に乗り最下位から脱出、8月には5連勝でダイエー・日本ハムを抜いて3位に浮上するがこの時点で激しく優勝を争う西武と近鉄とは10ゲーム以上の差が付いていた。10月6日の最終戦で長谷川が新人王を確定させる12勝目を挙げ、チームは何とか貯金1でシーズンを終えた。本拠地が狭い西宮球場から広いGS神戸に変わったことでチーム本塁打数は前年の186本から127本(リーグ4位)に激減し、20本塁打止まりのブーマー・ウェルズはシーズン終了後に自由契約となりダイエーに移籍した。投手陣は阪急時代からのエース山沖之彦や星野伸之が健在で、チーム防御率は前年の4.30から3.90のリーグ3位と、若干改善された。
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75 土井正三
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1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。)1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併)2005年から「オリックス・バファローズ」
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