1979年の阪急ブレーブスでは、1979年の阪急ブレーブスにおける動向をまとめる。
1979年の阪急ブレーブスは、梶本隆夫監督の1年目のシーズンである。
梶本監督1年目の前期は開幕6連勝と上々のスタートを切ったが、4月下旬から近鉄に引き離され、6月8日の時点で7ゲーム差を付けられた。ところがその翌日にチャーリー・マニエルが死球を受けて離脱したのを機に近鉄が急降下、その間に阪急が9連勝で急接近するが、近鉄が最終戦で優勝を決め前期は2位。後期は7月終了時点で唯一勝ち越して頭一つ抜け出すと、近鉄の8連敗もあり早々と独走状態。9月に近鉄が9連勝で2.5ゲーム差まで迫るが、10月5日に後期優勝を決めた。打撃陣ではこの年秀司から改名した加藤英司が絶好調で、三冠王も狙える勢いだったが、本塁打は8月に復帰したマニエルに抜かれ、結局首位打者と打点王の二冠に終わり、MVPもマニエルに奪われた。この年から打高投低傾向が強くなる中、投手陣は前年に腰を痛めた抑えの山口高志の不在を21勝で最多勝の山田久志を始め先発投手陣がカバー、64完投はリーグ最多で、チーム防御率が3.84とリーグ2位だった。パ・リーグ初の5連覇がかかったプレーオフは加藤英が無安打、ボビー・マルカーノも1安打でブレーキとなり、近鉄の山口哲治に抑えられ3連敗で敗退した。
*優勝はプレーオフで決定。2位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
78 梶本隆夫
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1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。)1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併)2005年から「オリックス・バファローズ」
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