1924年のメジャーリーグベースボール以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1924年のできごとを記す。 1924年4月15日に開幕し10月10日に全日程を終え、ナショナルリーグはニューヨーク・ジャイアンツが4年連続12度目のリーグ優勝を、アメリカンリーグはワシントン・セネタースが1901年の球団創設以来初のリーグ優勝であった。 ワールドシリーズはワシントン・セネタースがニューヨーク・ジャイアンツを4勝3敗で破り初制覇した。 1923年のメジャーリーグベースボール - 1924年のメジャーリーグベースボール - 1925年のメジャーリーグベースボール できごとアメリカンリーグは、前年の覇者ニューヨーク・ヤンキースを抑えてワシントン・セネタースが初優勝した。エースのウォルター・ジョンソンが23勝、防御率2.72、奪三振175で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振のタイトルに輝き、リーグ最優秀選手となった。またこの年に二塁手のバッキー・ハリスが選手兼任監督となり、サム・ライスが打率.344を打ち、グース・ゴスリンも打率.344・打点129で打点王となり、ジャッジ(打率.324)らが活躍した。 一方ナショナルリーグはニューヨーク・ジャイアンツが同じニューヨークのブルックリン・ロビンス(ドジャース)に1.5ゲーム差に迫られた。ロビンスの投手陣が充実していて特にダジー・ヴァンスが28勝、防御率2.16、奪三振262で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振のタイトルに輝き、優勝チームでないにもかかわらずリーグ最優秀選手となった。この他にバーリー・グライムスが22勝してジャイアンツを苦しめたが結局ジャイアンツがナショナルリーグ4連覇を果たした。しかし1880年代に2連覇、1900年代に2連覇、1910年代に3連覇を含む4回、1920年代に4連覇した名門のジャイアンツであったが、この後にスキャンダルもあって低迷期に入り、ジョン・マグロー監督の下では最後の優勝となった。 そしてワールドシリーズでは、事前の下馬評を覆して、ワシントン・セネタースが4勝3敗で初の世界一となった。3勝3敗の後の第7戦で延長12回裏にマクニーリーが幸運なヒットを打ってサヨナラ勝ちをおさめ、このシリーズで既に2敗していた大投手ウォルター・ジョンソンが初めてワールドシリーズの勝利投手となった。
記録
ジョンソン対ランディスシーズン終盤にジャイアンツとブルックリン・ロビンスと激しく競り合っていたさなかに、コミッショナーのランディス判事がジャイアンツのコーチとジミー・オコーナー外野手がフィラデルフィア・フィリーズのサンド遊撃手に500ドルを渡したと指弾した。このことでジャイアンツが優勝したため、シーズン終了後に、ワールドシリーズの中止を求める動きが表面化して、これにアメリカンリーグのバン・ジョンソン会長が絡み、アメリカンリーグ優勝のワシントン・セネタースの相手はニューヨーク・ジャイアンツではなく、2位のブルックリン・ロビンスに代えるべきだと主張した。ジョンソン会長にとってはブラックスソックス事件でランディス判事に敗れた遺恨があった。しかしコミッショナーはアメリカンリーグ会長の主張を無視し、ジャイアンツのコーチと外野手の2名をシリーズ出場停止処分にしてジャイアンツ対セネタースのワールドシリーズ開催を認めた。そして逆にジョンソン会長の譴責と謝罪を要求し、これに対してアメリカンリーグの8球団のうちセントルイス・ブラウンズを除く7球団のオーナーが同意してジョンソン会長は再び敗れた。 4年前のブラックソックス事件でその対応を誤り、ランディス判事のコミッショナー就任を阻止しようとして球団オーナーの反対で挫折し、そして今回は7球団のオーナーからランディス支持の逆風で、すでにかつてのアメリカンリーグ創設者としての絶対的な力は失われていた。彼はこの2年後にタイ・カップとトリス・スピーカーの賭博行為に関する疑惑が浮上して再びランディスと対立するが、既にリーグ内に味方がいない状況で1927年に失意のうちに会長を辞任することとなる。 最終成績レギュラーシーズン
ワールドシリーズ→詳細は「1924年のワールドシリーズ」を参照
個人タイトルアメリカンリーグ
ナショナルリーグ
表彰
出典
外部リンク |
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