1915年のメジャーリーグベースボール以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1915年のできごとを記す。 1915年4月14日に開幕し10月13日に全日程を終え、ナショナルリーグはフィラデルフィア・フィリーズがリーグ初優勝し、アメリカンリーグはボストン・レッドソックス3年ぶり4度目の優勝となった。この年が最後となったフェデラル・リーグはシカゴ・ホエールズが優勝している。 ワールドシリーズはボストン・レッドソックスがフィラデルフィア・フィリーズを4勝1敗で破り3度目のシリーズ制覇となった。 1914年のメジャーリーグベースボール - 1915年のメジャーリーグベースボール - 1916年のメジャーリーグベースボール できごとアメリカン・リーグは、ボストン・レッドソックスが投手陣が充実してルーブ・フォスター(20勝)、アーニー・ショア(19勝)、ダッチ・レナード(14勝)の他に、この年2年目であった投手ベーブ・ルースが18勝を上げて、リーグ優勝を飾った。 一方ナショナル・リーグはエースのグローバー・クリーブランド・アレクサンダー(ピート・アレクサンダー)が絶頂期を迎えて最多勝31勝・最多奪三振241・最優秀防御率1.22で投手三冠を獲得し、打撃は1913年から1919年にかけて本塁打王を6回獲得したギャビー・クラバスがこの年最多本塁打24本、最多打点118を記録して、この投打の両輪の活躍でフィラデルフィア・フィリーズがリーグ優勝した。 そしてワールドシリーズでは、レッドソックスの投手陣にフィリーズの打線は抑え込まれ、4勝1敗でレッドソックスが制覇した。レッドソックスはこの後に1916年、1918年にもリーグ優勝してシリーズ制覇を果たし、1912年もリーグとシリーズ両方を優勝しているので、1910年代はボストン・レッドソックスの黄金時代であった。しかも入団2年目のベーブ・ルースが投手として活躍し始めて、1918年には投手と打者として、そして1919年には打者として大活躍した。しかしそのベーブ・ルースをレッドソックスがヤンキースに金銭トレードした1920年からボストン・レッドソックスの歩みは暗転する。
ジェイコブ・ルパート1910年代半ばからヤンキースのオーナーであったフランク・J・ファレルとウィリアム・スティーブン・デブリーが不仲となり、加えて資金不足からこの年1月に、ジェイコブ・ルパートとキャップ・ヒューストンにヤンキースを売却した。そしてヒューストンが1922年に権利をルパートに売ったので、ここからニューヨーク・ヤンキースはルパートの時代に入った。彼はルパート醸造所の財産の相続人で、ビール会社の経営者で、8年間連邦議員を務めた政治家でもあった。豊富な資金力があったルパートは後に「45万ドルで、際立った才能を持つ選手も無く、さして評価もされていない、おまけに自前の球場すらない孤児の球団を買ったよ」と述懐している。しかしこの優勝経験の無い、専用球場も無いオンボロ球団はカネと意欲を持つオーナーと巡り合った事で、大きく変貌していく。やがてルパートはレッドソックスから大量の主力選手を豊富な資金を使って獲得し、ここからかつては孤児だったベーブ・ルースがスーパーヒーローとなり、リーグ初優勝して自前のヤンキー・スタジアムを建設し、ルパートが予想だにしていなかった快進撃を始める事になる。禁酒法によって本業は大打撃を受けたがレッドソックスのハリー・フレイジーのように選手を売り飛ばすようなことはせず、自身の趣味であった本のコレクションを売ってまでヤンキースに投資した。後にヤンキースのオーナーとなったラリー・マクフェイルやジョージ・スタインブレーナーのような切れ者で個性が強く、監督に直言してすぐにクビにするようなタイプのオーナーでなく、温厚ではあるが人を見る目は確かで、誰に仕事を任せるべきかを心得ていた。オーナーになってすぐにミラー・ハギンスを監督に招き、エド・バローをゼネラルマネージャーに任命して運営を任せ、自らは口を挟むことはしなかった。1930年代になってブランチ・リッキーのカージナルスがファームシステムで成功を収めると、ジョージ・ワイスを見つけて抜擢し、ヤンキースのファームシステムを完璧に構築させた。1939年に死去したが、1945年までは遺産相続人が継続してオーナーとなった。ルパートが招いたハギンス、バロー、ワイスはみな殿堂入りして、その後2013年にジェイコブ・ルパートも殿堂入りした。 フェデラル・リーグの動き1915年1月にフェデラル・リーグは、アメリカン・リーグとナショナル・リーグの両リーグを「シャーマン反トラスト法」(独占禁止法)で連邦地裁ケネソー・マウンテン・ランディス判事に訴えた。ランディス判事は1907年にスタンダード石油(ロックフェラー財閥)のリベート問題を扱い2924万ドルの罰金を会社側に言い渡したことで当時全米から注目されていた判事であった。ランディス判事は概してフェデラル・リーグ側を支持していた。そして選手の保有権に関する問題についても何らかの判決を下すと見られていた。しかし肝心のフェデラル・リーグの観客数が増えず、全球団が赤字で1915年のシーズンが終了した後に球団オーナーたちがこれ以上争っても意味がないとする意見が広がり、また10月8日にフェデラル・リーグの有力な支援者でブルックリン・ティップトップスのオーナーだったロバート・ウォードが亡くなったことをきっかけに、リーグの存続に疑問を持ち始めていることを見て取ったランディス判事は、突如訴訟の双方に仲介を働きかけ、アメリカン・ナショナルの両リーグがフェデラル・リーグを吸収できるように和解をすすめた。 その結果、1915年12月15日にシンシナチにアメリカン・ナショナルの両リーグとフェデラル・リーグ、マイナーリーグのインターナショナル・リーグとアメリカン・アソシエーションの代表が集まり、
などを内容とした協定を結んだ。そしてフェデラル・リーグ側は野球機構や両リーグを相手に起こした訴訟に関してことごとく取り下げた。(ただし前述のセントルイスの譲渡に関する件とボルチモアが「反トラスト法」違反で野球機構に当時90万ドルの損害賠償を要求した件はその後1922年まで続いた)これによって2年間に及ぶフェデラル・リーグ設立に伴う騒動は収まった。 なお一時はフェデラル・リーグ側に有利な姿勢を見せたランディス判事だったが、この時に両リーグがフェデラル・リーグを吸収させて両者の和解を促進させた彼の鮮やかな手腕は、メジャーリーグの役員に深い印象を残した。そしてこのことで、5年後に球界を揺るがすブラックソックス事件が起こった時に、メジャーリーグは彼の手腕に期待して、この大事件の処理を一任することとなる。 記録
その他
最終成績レギュラーシーズン
ワールドシリーズ→詳細は「1915年のワールドシリーズ」を参照
個人タイトルアメリカンリーグ
ナショナルリーグ
フェデラル・リーグ
出典
外部リンク |