1906年のメジャーリーグベースボール以下は、メジャーリーグベースボール(MLB)における1906年のできごとを記す。 1906年4月12日に開幕し10月14日に全日程を終え、ナショナルリーグはシカゴ・カブスが20年ぶり7度目のリーグ優勝をし、アメリカンリーグはシカゴ・ホワイトソックスが1901年以来2度目のリーグ優勝となった。 ワールドシリーズはシカゴのチーム同士の対戦となったが、シカゴ・ホワイトソックスが4勝2敗でシカゴ・カブスを破り、シリーズを初制覇した。 1905年のメジャーリーグベースボール - 1906年のメジャーリーグベースボール - 1907年のメジャーリーグベースボール できごとナショナルリーグのシカゴ・カブスは遊撃手ジョー・ティンカー、二塁手ジョニー・エバース、一塁手フランク・チャンスが「併殺トリオ」と呼ばれ、投手には少年時代に事故で右手の指2本を失いながらも3本指でカーブに威力がありエースとなったモーデカイ・ブラウン(通称スリーフィンガー・ブラウン)が26勝を上げて、監督兼任のフランク・チャンス一塁手の指揮の下に公式戦116勝を上げて、勝率.763はいまだに破れない史上最高勝率である。 一方アメリカンリーグのシカゴ・ホワイトソックスはチーム打率.230で3割打者は皆無で、投手陣のフランク・オーエン(22勝)、ニック・アルトロック(20勝)、そしてドク・ホワイト(18勝)とエド・ウオルシュ(17勝)が中心となって貧打チームを支えた。 ワールドシリーズの事前の予想は圧倒的に古参チームのシカゴ・カブスが有利で新興チームのシカゴ・ホワイトソックスが不利との見方が多かったが、この史上唯一のシカゴ対決は新興チームで貧打のホワイトソックスが制覇した。そしてシリーズ終了後に貧打のチームが公式戦116勝した強豪チームに勝ったことで「ヒットレス・ワンダー」と呼んだ。 ワールドシリーズで負けはしたが、シカゴ・カブスはこの年からリーグ3連覇を果たす。 シカゴ球団の共通点両リーグともシカゴのチームが優勝したが、この両チームとも前回の優勝時のチーム名は「シカゴ・ホワイトストッキングス」である。ナショナルリーグのカブスは1871年に「シカゴ・ホワイトストッキングス」として設立されてナショナル・アソシェーションに加わり、その後にシカゴ大火による中断もあったが、1876年のナショナルリーグ創設時に加盟した。その年に初のリーグ優勝をして以後1886年まで「シカゴ・ホワイトスットキングス」として11年間で6度優勝した。その後は1894年にコルツ、1898年にオーファンズと名称を変えて1903年にカブスとなった。そしてアメリカンリーグのホワイトソックスは1900年にそれまでのマイナーリーグのウェスタンリーグがアメリカンリーグに名称を代えて、ナショナルリーグの許可を得て、それまでの加盟チームのセントポール・セインツを大都市シカゴに移し、「シカゴ・ホワイトストッキングス」と名乗り、そしてこのチームはメジャーリーグ宣言の後の1901年の最初のシーズンを優勝した。ナショナルリーグもアメリカンリーグもその最初のシーズンはどちらも「シカゴ・ホワイトストッキングス」が初優勝していた。 規則の改正
最終成績レギュラーシーズン
ワールドシリーズ→詳細は「1906年のワールドシリーズ」を参照
個人タイトルアメリカンリーグ
ナショナルリーグ
出典
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