鳩山威一郎
鳩山 威一郎(はとやま いいちろう、1918年〈大正7年〉11月11日 - 1993年〈平成5年〉12月19日)は、日本の政治家、大蔵官僚。正三位勲一等。 第52・53・54代内閣総理大臣を務めた鳩山一郎の長男。祖父は第6代衆議院議長の鳩山和夫。母方の祖父は右翼団体玄洋社出身の貴族院議員寺田栄。鳩山由紀夫、鳩山邦夫は息子。井上和子は長女。指揮者の渡邉暁雄とは義兄弟に当る。 来歴・人物東京市小石川区(現・東京都文京区)出身。高等師範附属小(現・筑波大附属小)、旧制府立高等学校高等科文科甲類(後の旧・都立大学)を経て、1941年(昭和16年)に東京帝国大学法学部法律学科を首席で卒業[1]。高等試験行政科も1番で合格したと伝わっており[2]、大蔵省に入省(専売局書記兼大臣官房文書課に配属[1])、同期に柏木雄介、加治木俊道など。入省後まもなくに、海軍召集され短期現役士官、1942年(昭和17年)、ブリヂストン創業者石橋正二郎の長女石橋安子と結婚。 1946年(昭和21年)召集解除により大蔵省復職。主計局畑を歩み、経済企画庁長官官房長から理財局長、主計局長(2週間後には会計事務職員研修所長を兼務)となり、1971年(昭和46年)6月11日より大蔵事務次官就任。次官在任中の1972年(昭和47年)9月、田中角栄首相の日本列島改造論を背景とした総理の至上命令として、鳩山次官以下、相沢英之主計局長、橋口収理財局長、高木文雄主税局長らで、1973年度の超大型予算を組むこととなった。のちに、1971年(昭和46年)のニクソン・ショックに伴うインフレの兆しがあったことや、1973年(昭和48年)10月からのオイルショックなどと相まって、戦後最悪の狂乱物価を招いた超インフレ予算として批判されることとなった。1971年(昭和46年)のニクソン・ショック時は外国為替市場閉鎖論を主張したが、水田三喜男蔵相には柏木雄介顧問らが主張する外国為替市場開場論が採用されることとなった。1972年(昭和47年)に退官する。 1974年(昭和49年)、大蔵OBとして酒や塩などの関連業界団体の組織票を中心として参議院全国区に立候補し初当選。派閥は中曽根派、無派閥の後、渡辺派に所属。1976年(昭和51年)、当選1回ながら福田赳夫内閣の外務大臣に抜擢されるなど、毛並みも良い「大物官僚」出身の政治家として期待されたが、病気がちで政界では目立った活躍は出来ず、3期18年務め1992年(平成4年)に政界引退。1993年(平成5年)12月19日死去。75歳没。墓所は谷中霊園。 長男由紀夫と1986年(昭和61年)7月の衆院初当選同期で新井将敬(大蔵省出身)の後援会会長を務めた(由紀夫自身の選挙区は北海道だが、新井の選挙区内に家を構えていた)。その他、財団法人東京都軟式野球連盟会長職に就く。後に同職は次男・邦夫に引き継がれた。 ウィスキーの水割りを作るのが非常に上手で、大蔵官僚時代は同僚や後輩たちを家に呼び、その水割りをふるまったという。 長女(井上)和子、長男由紀夫、次男邦夫、の他に、非嫡出子が1人いる。 1986年(昭和61年)の由紀夫初当選時(自身は比例区で三選)には既に病身で、息子2人に支えられながら国会の階段を上がったことなどが、『みわちゃんねる突撃永田町!!』「鳩山由紀夫の回」[3]で、由紀夫自身が明らかにしている。 略歴
系譜
→詳細は「鳩山由紀夫 § 系譜」を参照
参考文献
脚注外部リンク
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