細川興一細川 興一(ほそかわ こういち、1947年6月17日 - )は、日本の大蔵官僚。富山県富山市出身(父も富山県、母は石川県)[1]。血液型はB型[1]。元日本政策金融公庫代表取締役総裁。 略歴学歴
職歴
人物細川は地方行政に興味があったことから、当初は大蔵省(後の財務省)より自治省(後の総務省)が第1志望であった。大蔵省か自治省かで迷ったが、小粥正巳大臣官房秘書課長補佐の「君がこれから自治省に断りに行くことが、大蔵省での最初の仕事だよ」という一言で大蔵省入省を決意した[20][21]。 地方行政に興味があったことから、国家公務員上級試験(甲種)を行政職で受験していた。しかし、大蔵省を志望する者は、法律職か経済職が大多数だった。細川曰く「『大蔵省では行政職は採らない』と言われた。実際には2年に1人は採用されていたが、そう思い込んでいたから、(大蔵省には)法律職で受けた。試験前に商法などは慌てて勉強したし、そんなこともあって成績は良くなかった」と述べている[20][22]。 小学生の頃から政党の遊説を見に行くほど早熟で国事好き。いずれは政治家へと考え大蔵省入省。しかし、「財政の面白さ」に目覚め、方針転換した[23]。 細川の真骨頂とされているトコトン詰める粘り強さは、入省直後に配属された主計局総務課企画係で「大蔵官僚の中の大蔵官僚」と呼ばれ、後に事務次官に上り詰めた吉野良彦との出会いによって形成された[24]。三度の飯より予算論議が好きなその仕事ぶりは、 後に事務次官となる斎藤次郎の高い評価を受け、斎藤組の中枢入りを果たした[24][3]。 本来は事務次官としての任期は1年であったが、事務次官候補だった田谷廣明、杉井孝が汚職による不祥事で退官し、3期下の牧野治郎が事務次官候補から外されたことにより、年次による時間的余裕が生じたため、事務次官を2年務めた[25][26]。 大蔵省入省同期
脚注
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