魚釣島
魚釣島(うおつりしま、うおつりじま[11])は、琉球列島の一部である尖閣諸島にあり、尖閣諸島の中では最大の島である。日本の行政区分では沖縄県石垣市登野城尖閣(2020年10月1日に登野城より分離)に属する。中華人民共和国と中華民国も同島の領有権を主張している。中国側は同島について釣魚島(ちょうぎょとう、ディァオユーダオ, Diàoyúdǎo) という名称を使用している[12]。 概要尖閣諸島の西端、北緯25度44.8分、東経123度28.8分に位置する無人島。沖縄本島から約410キロメートル、石垣島から北西約170キロメートル、台湾島から約170キロメートル、中国大陸からは約330キロメートル離れている[13]。 1895年から日本が領有し、明治時代に古賀辰四郎が開拓して島の西岸に鰹節工場が作られ、船着き場も作られた。船着き場は空中写真でも確認でき、魚釣島灯台の建設や保守にも使われた。最盛期は248名、99戸が生活する古賀村が形成されていたが、1940年に事業中止に伴って無人島となった[14]。 1970年代から埼玉県さいたま市在住の日本人が私有し、日本国政府は2002年から年2112万円で賃借していたが、2012年9月11日に北小島、南小島とともに3島を20億5千万円で購入し、日本国へ所有権移転登記を完了した[15]。 上陸は許可を要する[16]。島への定期船は無く、上陸や見学には漁船をチャーターする必要がある。 日本の行政区分では沖縄県石垣市字登野城尖閣2392番地にあたる[1][11]。1895年から日本が領有し実効支配しているが、1970年頃から中華民国と中華人民共和国も同島の領有権を主張している。中国側は同島について釣魚島(ちょうぎょとう、ディァオユーダオ, Diàoyúdǎo) という名称を使用している[12]。 島名日本名の「魚釣島」について日本政府は地元で呼ばれている名称を地方公共団体が調査し使用しているとしている[12]。 「1885年、日本の公図を作る際、沖縄県職員石澤兵吾は、琉球国元官僚の大城永保から聴き取りを行ったが、大城は魚釣島に関し『釣魚島』と示しました。(趣意)」(島嶼研究ジャーナル第5巻第2号91ページ) 琉球ではゆくん(よこん)といった[11]。石垣島出身の国語学・民俗学者の宮良当壮は、「よこん」の「よ」(ゆ)は「いを」(魚の古語)の琉球方言、「こん」(くん)は「くに」(國)の琉球方言であり、「よこん」は「魚國」(いをくに)、つまり魚が多いところという意味であるとする[17][18]。漁民からは方言でイーグンジマと呼ばれてきた[11]。イーグン(イグン)とは与那国方言で銛のことで[19]、島の地形が銛のように聳えることに因む[11]。なお、鳩間島方言では銛のことをユクンという[19]。 『向姓具志川家家譜 十二世諱鴻基』には、1819年に公務で薩摩に向かった琉球王族尚鴻基の船が、暴風雨で南西に漂流し「魚根久場島」に到達し、さらに漂流して3日後に与那国島に到達したとの記録がある[20]。 國吉まこもは「魚根久場島」は尖閣の琉球名ユクンクバジマであるとし、長崎純心大学の石井望は尖閣諸島の魚釣島か久場島を指すと指摘している[21]。 魚釣島という名は、久場島とこの島との関係が、『おもろさうし』において「こはしま」(くば島)と歌われた久高島と「つれしま」(つれ島、つりしま)と歌われた津堅島[22]の関係に相似することに由来する。 ただし、『おもろさうし』の「こはしま」は、前後の歌との関係等から見て慶良間諸島の久場島のことであるともされる[23][24]。 沖縄本島と中国福州の航路上にあり、琉球王府時代には航海の標識として重要であったため、冊封使によって航行中にこの島を見たことが記録されており、陳侃の『使琉球録』では「釣魚嶼」と、徐葆光の『中山伝信録』では「釣魚台」とされている[11]。 地理面積は3.641983平方キロメートル(石垣市土地台帳の数値)で[1]、これはモナコ公国の国土面積(1.95平方キロメートル)の約2倍、富山県舟橋村の面積(3.47平方キロメートル)とほぼ同面積に相当し、尖閣諸島の中では最大の島である[1][25]。最高標高362メートル[1][26]。 東西3.5キロメートル、南北1.3キロメートル。島の北側は比較的緩やかだが南側は急峻な崖となっている[1]。島内には最高峰の奈良原岳(標高 362メートル)や屏風岳(標高 320メートル)といった山がある。 自然センカクモグラ、ウオツリナガキマワリ、センカクサワガニ、タカラノミギセル、センカクアオイ、センカクオトギリ、センカクツツジ等の固有種が生息する[27][28]。1919年に水路部が発行した『日本水路誌 第6巻』によれば、8-9尺(約2.4-2.7m)のヘビが少なからず生息していたという[29]。 1978年に、右翼団体日本青年社が上陸を図った際に、与那国島の島民から1つがいのヤギ(パサン[28])が緊急時の食料として贈られて島に持ち込まれた[30]。このヤギはのちに野生化して繁殖し、1991年に南斜面だけで300頭が確認された。2000年に13.59%であった島の裸地は、ヤギによる食害で2006年は3割を超えて、固有種をはじめとする生態系への影響が懸念されている[28]。2024年には500頭いるともいわれている。植物の減少とともに保水力も失われ、8本あった川が2024年には2本に減少していたという。石垣市議会はヤギ捕獲の要請を決議して日本政府に要請しているが、対策は行われていない[27][31]。 歴史
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目外部リンク
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