金森萬象
金森 萬象(かなもり ばんしょう、1893年7月10日 - 1982年11月9日)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10]。新漢字表記金森 万象[1][7][8][9][10]、本名金森 政次郎(かなもり まさじろう)[1][2][3][4][5]。牧野省三の映画最初期の助手であり、脚本・寿々喜多呂九平、撮影・石野誠三とのトリオがマキノ最盛期の映画製作を支え、マキノの歴史とともにある人物として知られる[6][11]。 人物・来歴1893年(明治26年)7月10日、京都府京都市下京区東洞院通松原に生まれる[1][2][3][4][5][7]。初期の資料である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には、「明治二十八年七月十日」(1895年7月10日)と記されている[2]。実家は、のちに嵐山で土産物屋を営業していたという[6]。 同区にあった旧制・京都市立第二高等小学校(のちの京都市立成徳中学校、2007年に統合して京都市立下京中学校)を卒業した後、諸職業を経て、満24歳となる1917年(大正6年)、活動写真雑誌社京都支社を設立、同社の映画記者として活動する[2]。満26歳となる1919年(大正8年)7月、当時、日活関西撮影所の監督であった牧野省三の書生に入り、助監督となる[2][3]。同年7月10日、牧野が日活を退社して新会社・ミカド商会を設立、金森は同社に入社して『都に憧れて』を演出、同作は同年11月30日に公開され、監督としてデビューする[2][3][8][9]。同社は翌1920年(大正9年)1月に日活に吸収されるが、その1年半後の1921年(大正9年)6月には、牧野は再独立し、牧野教育映画製作所およびそのスタジオとしての等持院撮影所を設立、金森はこれに改めて入社、監督および撮影技師として活動する[2][8][9]。 同社は、1923年(大正12年)6月1日、マキノ映画製作所に改組され、金森は引き続き、同社の等持院撮影所で監督を務めた[8][9]。同社は、脚本家・寿々喜多呂九平が登場したことで知られるが、金森は、同年7月9日に公開された寿々喜多のデビュー作『浮世絵師 紫頭巾』を手がけ、同作では牧野とともに監督としてクレジットされ、以降、多く寿々喜多作品を手がけた[6][12]。『浮世絵師 紫頭巾』については、筈見恒夫も大井広介も連続活劇の影響を指摘している[12][13]。1924年(大正13年)7月、同社は東亜キネマへの吸収合併が行われ、同撮影所は東亜キネマ等持院撮影所となるが、金森は引き続き、同撮影所で監督を務めた[8][9]。『日本映画年鑑 大正十三・四年』によれば、当時金森は「北欧作家の著書」を好んで読んでいたという[2]。金森が監督し、同年10月17日に公開された『ロビンフットの夢』は、アラン・ドワン監督、ダグラス・フェアバンクス主演による『ロビン・フッド』(1922年)にインスパイアされた作品であり、当時の金森は、ジョージ・B・サイツの作品に傾倒していたといわれている[14]。 ![]() 1925年(大正14年)6月、牧野は東亜キネマを退社、新たに御室撮影所を建設、マキノ・プロダクションを設立、金森はこれに参加する[8][9]。金森の参加の経緯について、同年に発行された『欧米及日本の映画史』にすでに記されており、同書によれば、牧野が去った等持院撮影所は小笹正人が新所長に就任して効率化を図ったが、マキノ派の従業員は怠業を続けていたため、沼田紅緑、金森、宮崎安吉、田中重次郎、片岡市太郎、中根龍太郎、泉春子ら20名、および大道具・小道具・衣裳部のすべてを馘首、これを前後して山根幹人や阪東妻三郎も自主退社、阪東を除いてみなマキノに流れたという[15]。同年12月、管家紅葉が金森の書生を経て、同社に入社、金森付の助監督になっている[6]。金森に師事した者は、管家のほか、のちに金森の協立映画プロダクションで脚本も書いた滝川虹二がいた[6]。このころ、寿々喜多、二川文太郎、井上金太郎、月形龍之介、都村健らとともに「マキノをめぐる同人社」を結成している[16]。 1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、金森は、マキノ正博、二川文太郎、吉野二郎、阪田重則、勝見正義らとともに「監督」に名を連ねた[17]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、同年12月、賃金未払いが発生してストライキが起き、翌1931年(昭和6年)1月、マキノ正博に代って二川文太郎が委員長となった従業員組合の副委員長に、勝見とともに就任している[18][19][20]。同年同月、製作が再開されたが、同年2月には御室撮影所が全焼、同年3月末には解散を余儀なくされた[20]。金森は、最後まで同社に所属して同社の製作をささえ、同年4月24日に公開された『京小唄柳さくら』が、同社での最後の監督作であり、同作が、同社の最終作品となった[1][8][9]。 マキノ・プロダクション解散の半年後の同年10月、同社元専務・内藤富吉が設立した内藤プロダクションで、旧マキノの人材とともに、天理教の後援により製作した『大聖天理御教祖』を、柏木一雄と共同で監督している[9][21]。翌1932年(昭和7年)2月には、高村正次と立花良介が御室撮影所に設立した正映マキノキネマで、マキノ正博と共同で1作監督しているが、同社は同年4月には解散、そこで金森は、マキノの残党を集め、協立映画プロダクションを設立、映画製作を開始した[8][9]。しかしながら同社もすぐに解散となり、同年中に市川右太衛門プロダクションに入社、2作を監督し、翌1933年(昭和8年)には、新設のゼーオー・スタヂオ(東宝映画の前身の一社)でトーキーを手がけた[8][9]。 弟子の管家紅葉によれば、その後、一時、帝産観光バスの写真部に在籍したという[6]。しかしながらこの証言は管家のみのもので確証はなく[6]、通常は、ゼーオーが合併して、1937年(昭和12年)9月10日、東宝映画になり、1943年(昭和18年)12月10日にさらに合併により東宝になるが、監督は廃業し、同社に事務職として奉職して、第二次世界大戦後に至った、とされている[1]。退職後の晩年は、京都の右京区嵯峨野有栖川町でひとりぐらしをしていたという[1][6]。1970年代には、京都に本拠地をもつ日本生活協会が発行した月刊新聞『消費者自身』に『映画今昔』を連載した[1]。 1982年(昭和57年)11月9日、病気により死去した[7]。満89歳没。岡島艶子によれば、養老院で亡くなったとのことである[22]。 2001年(平成13年)、イタリアで行われた第20回ポルデノーネ無声映画祭、現存する1作『争闘』が上映された[23]。2002年(平成14年)、東京で行われた第15回東京国際映画祭で、現存するもう1作『祇園小唄 繪日傘』が上映された[24]。 フィルモグラフィクレジットは特筆以外すべて「監督」である[8][9]。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名[8][9]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[10][25]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 ミカド商会製作・配給は「ミカド商会」、すべてサイレント映画である[8][9]。
牧野教育映画製作所製作・配給は「牧野教育映画製作所」、すべてサイレント映画である[8][9]。
マキノ映画製作所等持院撮影所製作は「マキノ映画製作所等持院撮影所」、配給は「マキノ映画製作所」、すべてサイレント映画である[8][9]。
東亜キネマ等持院撮影所特筆以外すべて製作は「東亜キネマ等持院撮影所」、配給は「東亜キネマ」、すべてサイレント映画である[8][9]。
マキノプロダクション御室撮影所![]() ![]() 製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[8][9]。
協立映画プロダクション製作・配給は「協立映画プロダクション」、すべてサイレント映画である[8][9]。
市川右太衛門プロダクション製作は「市川右太衛門プロダクション」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である[8][9]。 ゼーオースタヂオ製作は「ゼーオー・スタヂオ」、すべてトーキーである[8][9]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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