中根龍太郎

なかね りゅうたろう
中根 龍太郎
本名 山口 龍太郎 やまぐち りゅうたろう
生年月日 (1901-12-26) 1901年12月26日
没年月日 (1944-08-30) 1944年8月30日(42歳没)
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市上京区御池栄町
死没地 日本の旗 日本
職業 俳優コメディアン映画監督
ジャンル 浅草オペラ映画
活動期間 1916年 - 1933年
活動内容 1916年 浅草オペラ
1924年 マキノ映画製作所入社
1925年 マキノ・プロダクション設立とともに移籍
1928年 中根龍太郎喜劇プロダクション設立
1928年 松竹下加茂撮影所入社
1929年 マキノ・プロダクション
1931年 同社解散
配偶者 山口寿賀(夫死後再婚して川本性)泉春子
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中根 龍太郎(-竜太郎、なかね りゅうたろう、1901年12月26日 - 1944年8月30日[1])は、日本の俳優コメディアン映画監督である。本名は山口 龍太郎(やまぐち りゅうたろう)である[1]

人物・来歴

1901年(明治34年)12月26日京都府京都市上京区御池栄町に「山口龍太郎」として生まれる[1]

東京に出て、満14歳のときに1916年(大正5年)、ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーらの「オペラコミック」一座に入門、原信子が1918年(大正7年)に設立した「原信子歌劇団」、石井漠の「石井漠舞踊団」を経て、浅草オペラの舞台を経験した[1]

関東大震災後、京都に戻り、1924年(大正13年)、牧野省三マキノ映画製作所に入社、等持院撮影所で金森万象監督の『超現代人』に出演して映画界にデビューした[2]。同年、二川文太郎監督の『恋の猟人』で、映画出演4作目にして主演作を勝ち取った[2]。同社は同年、東亜キネマと合併するが、そのままマキノが独立・分離するまで在籍した。翌1925年(大正14年)、マキノ・プロダクションが設立されると同社に移籍した。中根は現代劇にも剣戟映画にも出演、主演した。1926年(大正15年)、自らが主演した『お止めなさいよ人の噂は』を監督して、映画監督としてデビューした[2]。1927年(昭和2年)、女優の泉春子と結婚した[3]

1928年(昭和3年)、牧野省三が監督した大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』に出演、松野河内守役と与太九呂役の二役を演じた後、押本七之助監督の『伊達男』に主演した後に、独立して、中根龍太郎喜劇プロダクションを設立した。

プロダクション解散後、中根は、プロダクションに参加した有馬茂明(のちの有馬是馬)、結城三重吉(のちの小崎政房)、千葉三郎(のちの大乗寺八郎)とともに妻の春子の実家の協力を得て、佐賀県唐津町(現在の唐津市)で浪花節芝居をしていたが、同年11月には郎党ともども松竹下加茂撮影所に迎えられた[4]。同プロダクションで映画に出演した榎本健は浅草公園六区に戻り、榎本健一と名乗って「カジノ・フォーリー」を立ち上げている。中根の下加茂入社第1作は、阪東寿之助主演、友成用三監督の『とかげ』で、翌1929年、入社4作目でやっと監督・主演作『提灯』を得た[2]。同年、日活から伊藤大輔が招かれて監督した傾向映画の大作『斬人斬馬剣』に出演したのを最後に、牧野省三がすでに没した後のマキノ・プロダクションに戻った[2]

牧野省三の長男・マキノ正博(のちのマキノ雅弘)が跡を継いだマキノでは、入社第1作は、かつて初主演作を撮った二川文太郎が監督した『刀を抜いて』、主演であった[2]。1931年(昭和6年)には同社は解散することになり、水上譲太郎監督の『落第坊主』を最後にフリーランスの道を選んだ[2]。1933年(昭和8年)には、東京のP.C.L.映画製作所(のちの東宝映画の前身の一社、現在の東宝の前身の一社)で、木村荘十二監督のトーキー音楽喜劇 ほろよひ人生』に出演した[2]

1944年(昭和19年)8月30日、死去した[1]。満42歳没。

フィルモグラフィ

特筆以外は出演。

マキノ - 東亜キネマ 等持院撮影所

マキノ御室撮影所

中根龍太郎喜劇プロダクション

松竹下加茂撮影所

マキノ御室撮影所

フリーランス

  1. ^ a b c d e 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「中根龍太郎」の項。
  2. ^ a b c d e f g h #外部リンク、「中根龍太郎」、日本映画データベース、2009年11月12日閲覧。
  3. ^ 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年、「泉春子」の項。
  4. ^ 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.30(「有馬是馬」、執筆奥田久司)。

外部リンク