阪東三右衛門
阪東 三右衛門(ばんどう さんえもん、1895年2月19日 - 1942年1月6日)は、日本の俳優、歌舞伎役者、元子役である[1][2][3][4][5][6][7][8]。歌舞伎役者としての名は阪東 三吉(ばんどう さんきち)、後年は中村 吉之進(なかむら きちのしん)と名乗った[1][2][3][5]、本名榎本 正(えのもと ただし)[2]。十三代目守田勘彌門下の歌舞伎俳優から、マキノ・プロダクションの剣戟映画のスター俳優に転身した[1][2][3][4]。 人物・来歴1895年(明治28年)2月19日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[1][2][3][4]。父は四代目市川紅若(本名・榎本米太郞、1870年 - 1938年)[2][9]。紅若は摂津国武庫郡灘御影町(現在の兵庫県神戸市東灘区御影地区)の出身であり、息子・正(三右衛門)の生まれる1年前、東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷3丁目)の春木座(のちの本郷座)で四代目市川紅若(三河屋)を襲名した苦労人で、「名門家の拙い俳優」を嫌っていた[9]。 数え年7歳、満6歳となった1901年(明治34年)3月、父が襲名披露をしたのと同じ春木座で上演された、七代目市川團蔵による『佐倉義民傳』に末弟役で出演し、初舞台を踏む[2]。その後、父・紅若とともに、歌舞伎座、新富座、明治座等、あるいは各地の小劇場にも出演し、歌舞伎の子役として育つ[1][2][3]。初舞台から15年を経て、1916年(大正5年)1月、十三代目守田勘彌に入門、同年9月には、帝国劇場で「初代 阪東 三吉」(喜の字屋)の名題を得て、昇進する[1][2][3][4]。その後は、師の勘彌とともに、市村座、帝劇、有楽座等に出演した[2]。二代目市川猿之助(のちの初代市川猿翁)の春秋座にも参加した[1][3]。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』によれば、当時満28歳、身長五尺四寸(約163.6センチメートル)、体重十二貫匁(45キログラム)、愛読書は夏目漱石、トルストイ、シェイクスピアであり、金光教を信仰し、妻・下女・愛犬とともに東京府荏原郡入新井町大字入新井字不入斗529番地(現在の東京都大田区大森北)に住んでいたという[2]。当時の自選による代表作は、『忠直卿行状記』(菊池寛)の「浅水与四郎」役、『玄宗と楊貴妃』の「高力士」役だという[2]。 1928年(昭和3年)5月、牧野省三に招聘されて京都に御室撮影所をもつマキノ・プロダクションに入社、「阪東 三右衛門」に改名する[1][2][3][4]。同年7月20日に公開された、監督金森萬象、脚本寿々喜多呂九平、撮影石野誠三のトリオによる『天明果報談』に主役「笹井新三郎」役を演じて、満33歳で映画界にデビューした[1][3][4][6][7]。同作の助監督であった管家紅葉によれば、マキノ入社以前に片岡千恵蔵プロダクションにいたが、作品にクレジットされる前に退社し、マキノに移籍したという[4]。牧野の長男で当時同社の俳優・監督であったマキノ雅弘によれば、三右衛門の入社は、實川芦雁と同じく同年7月であるという[10]。 同年10月26日に公開された『骨肉』(監督二川文太郎)、翌1929年(昭和4年)3月15日に公開された『嘘』(監督人見吉之助)に主演[1][6][7]、同年4月19日に公開された第1作に始まる『弥次喜多』シリーズでは、根岸東一郎演じる「弥次郎兵衛」に対する「喜多八」を演じてコンビとなった[1][3]。このころ、日活大将軍撮影所の大河内傳次郎・河部五郎、帝国キネマ演芸の実川延松・阪東豊昇、河合映画の杉狂児(あるいは里見明)・大岡怪童といったコンビものが多くつくられたという[11]。 同年7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、三右衛門は、嵐冠三郎、荒木忍、南光明、根岸東一郎、谷崎十郎、市川米十郎らとともに「俳優部男優」に名を連ねた[12]。その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)11月、同社を退社した[1][4][6][7]。同社での最後の作品であり、三右衛門にとっての最後の映画出演にあたる作品は、同年12月19日に公開された『続お洒落狂女』(監督吉野二郎)であった[6][7]。前出の管家によれば、三右衛門は身体も顔も細く、姿を補強するために、口に綿を一杯入れてのメイクをしていたとのことである[4]。 マキノ退社後は、歌舞伎の舞台に戻った[1][4]。芸名も「阪東三吉」に戻し、1931年(昭和6年)8月には、市川小太夫が主宰する「新興座」に参加、京都座での関西旗揚公演では、『曾我物語』(岡本綺堂)に「曾我十郎祐成」役、『黒手組』(江戸川乱歩)に「服部時雄」役をそれぞれ演じた記録が残っている[13]。 フィルモグラフィクレジットはすべて「出演」である[6][7]。公開日の右側には役名[6][7]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[14][15]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 マキノプロダクション御室撮影所製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[6][7]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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