郷学郷学(ごうがく[1][2][3]、きょうがく[1])は、江戸時代から明治初年にかけて存在した教育機関の一種。郷校(ごうこう)、郷学校(ごうがっこう)、義校(ぎこう)など[注釈 1]ともいう。 現在用いられる「郷学」という用語は、藩校・家塾・寺子屋に分類されない教育機関を指すものとして創出された概念であり、内実は多様である[4][5][6]。大きくは主たる教育対象が武士であるか庶民であるかによって2種類に分けられる[2][3][7]。武士教育機関としての郷学は、藩校の延長、あるいは小規模の藩校ともいうべきものである[3]。また庶民教育機関としての郷学については、官(藩主や代官など)が設立・運営に関与したものから、民間有志によって設立・運営されるものとで性格を分けられ得る[1]。 「郷学」と総称される学校である郷校は、江戸時代から明治初年までの全期間に全国で1000余校あったとされる[1]が、成立時期は明治初年に集中している[1]。郷校は寛政期の頃から増え始め天保期に急増、明治に入る頃に激増し近代学校制度の基礎となった。 明治維新期に設立された「郷学」あるいは「郷学校」は、1872年の学制公布に先立って初等教育の普及を担い[7]、学制公布後は多くが小学校[注釈 2]に転換した[3]。 定義と研究「郷学」や「郷校」という用語自体は中国古典に由来するものである[4]。江戸時代に設立されるようになった在郷の教育機関について用いられた「郷学」は、多分に儒者たちの憧憬を反映した雅称であった[4]。18世紀後半、庶民教育機関である久世典学館・笠岡敬業館を担った儒者たちが「郷校」を自称したのが早い例とされている[4]。幕末期、水戸藩は領内に設置した庶民教育機関について地名を冠した「○○郷校」という名称を用いた[4]。同時代の公文書では「教諭所」「教戒所」「学館」など多様な用語で称されていた[4]。 明治期に文部省が学制以前の教育についての史料を収集し『日本教育史資料』を編纂した際に、藩立学校・家塾・寺子屋に分類できない学校を「郷学」としてまとめた[4][5]。これによって現代用いられている「郷学」という概念が創出されることとなったが[5]、多様な性格を持つ学校を含むこととなった[5]。 郷学研究の基礎を築いたのは石川謙である[4]。1927年、石川は『日本教育史資料』に掲載された以上の事例を発掘し、対象による2分類を提唱した[5]。「藩侯の支族又は家老などの采地に建てられた陪臣学問所」と「領内各地の庶民を教育する為に、藩主又は領主が設立したり、又は設立を補助したり設立を嘉納したりした学校」である[6]。石川は第二次世界大戦後まで研究を深め、
の事例を検討した[4]。 1978年に津田秀夫は「民衆の自主性や内発性が出発点となった公的教育運動」から生まれた郷学に対して「第三種郷学」概念を提唱、1970年代から1980年代にかけて「第三種郷学論争」が展開されるとともに事例研究が進められた[5]。 江戸時代の郷学武士教育機関としての郷学武士を対象とする郷学は、藩主が藩内の遠隔地に設けたり、藩主一族や家老・重臣が自らの知行地に設置したものである[7]。重臣らが自らの知行地で自らの家臣(藩主の陪臣)を対象として開いたものについて石川謙は「陪臣学問所」と解説した[6]。 これらの郷学は、教育内容からも藩校の延長にあるといえる[7][1]。会津藩、秋田藩、盛岡藩、萩藩、佐賀藩、熊本藩など、遠方の大藩に多く設けられた[1]。 このほか、大身旗本が知行地で家臣の教育のために開設した学校も郷校に分類される(藩校#主な郷学 (大身旗本領内に設置)参照)。 主な武士教育機関としての郷学
庶民教育機関としての郷学庶民を対象とする郷学は、庶民教育機関である点では寺子屋と同様であるが、幕府や藩主の保護・監督をうけていた点で寺子屋と区別される[7]。 石川謙は、庶民を対象とする学校を、成人を対象とする教諭所と、子弟に初等教育を施す学校とに区分した[6]。教諭所について郷校と区別する見解もある[8]が、郷学と教諭所は多く役割を兼ねた[9]。 官が主導・保護した郷学藩主や代官が庶民教育のために開いたり、あるいは民間有志が設立して領主が保護・監督した郷学[1]。 1668年(寛文8年)に岡山藩主池田光政が領内に123か所の手習所を開いた例が古く、また代表的である[6]。この手習所はのちに閑谷学校に統合された[1]。 18世紀末、幕府代官早川八郎左衛門正紀は、任地に3つの郷校(美作久世の典学館、備中笠岡の敬業館、武蔵久喜の遷善館)を開設した[8]。久世の典学館は土地や建物とその維持費を地域の村役人や富農からの寄付によってまかない、『六諭衍義』や早川自身の著書『條教説話』などを早川本人や代官所雇用の儒者によって庶民に講釈した[8]。 上野国伊勢崎藩領では、享和3年(1803年)に伊与久村(現在の伊勢崎市境伊与久)の豪農宮崎有成ら有志によって庶民教育機関として五惇堂が設立された[10]。文化5年(1808年)には藩が五惇堂を公認し、敷地や建物にかかる年貢を免除し、講師を派遣するなどの支援を行った[10]。五惇堂に続き伊勢崎領では多くの郷学が組織されており、「官民協力の郷学」と評される。 これらの郷学の教育は、社会的な危機の深化に対応するため、道徳の高揚や農業の奨励など学問を通して一般民衆に封建的な陶冶を施すことが主目的であったと評価される[8]。郷学では基礎的な漢学を主とし、読み書きにも力が注がれた[8]。 民間の設立・運営による郷学民衆教育運動の自発性・内発性を評価して「第三種郷学」とも捉えられるもので[1]、摂津国平野郷(大阪市平野区)の含翠堂がその代表例として挙げられる[1][6]。含翠堂は1717年(享保2年)、平野郷の有力者である土橋友直らによって開設され(開設当初の名称は「老松堂」)、1872年(明治5年)の学制頒布まで続いた[1]。この学校の維持運営に当たったのは平野郷有力者たちの「同志中」であり、維持費の拠出、運営、教師の選択までを行う「民間有志の手のみになった郷学」であった[6]。また飢饉に備えて積み立てを行い窮民を救済する社会的機能も有していた[11]。 含翠堂は次の要素を有しており、近代公教育の先駆とも評価されている[1]。
大坂の懐徳堂を郷学と捉え[2]、その大規模で専門的な事例と見なす理解もある[2]。 主な庶民教育機関としての郷学
明治初年の郷学校「郷学」と総称される学校は、江戸時代から明治初年までの全期間に全国で1000余校あったとされる[1]が、その多くは明治初年の成立である[1]。 明治維新後、府県や諸藩はそれぞれの方針で小学校・郷学校の整備を進めた[12]。当時「小学」「小学校」といった名称は民衆になじみが薄く、士族向けの学校と見なされたことから[12]、「郷学校」「郷学所」「啓蒙所」「教導所」などの名称が用いられた[12]。郷学校は主として地方住民の有志によって設立・維持された学校であり[12]、その経営形態からも、近代の小学校の前身と見なされうる[7][12]。 1872年(明治5年)の学制発布により、多くの郷学校は公教育の中の小学校へと転換していった。 各府県・諸藩の郷学校京都の小学校(番組小学校)→詳細は「番組小学校」を参照
1869年(明治2年)に京都の町衆によって設立された小学校(京都小学校[6]、あるいは番組小学校と総称される)は、民間主導の郷学校[1][6]と見なされ得るもので、1872年の学制公布に先立ち設立された小学校としてその時期の早いこと、また学区制によって組織的に設立されたことからも著名なものである[12]。京都府は新たな町組(番組)を設け、1868年(明治元年)10月に小学校設置の趣旨を諭達。その後小学校の諸規則も定められ、学制以前に64校の小学校が設立された。京都の小学校は、地域の集会所や大人の教諭所などを兼ねる役割を持っていた[12]。 神奈川県の郷学校神奈川県は1871年(明治4年)8月、郷村の組合(寄場組合)を単位として全県を27に分け、各地区に郷学校を設立する計画を示した[7]。計画によれば、各村に学校世話役人を置いて学校運営にあたらせ、学校の運営費用は学童の有無にかかわらず各戸に割り当てるというものであった[7]。就学期間や教科、教授内容も示された[7]。 名古屋県の義校名古屋藩は明治維新後、藩校明倫堂を改革して「小学」を設け、庶民にも門戸を開こうとした[12]。しかし、士族と庶民の間の意識の隔たりもあり、結局は士族子弟の学校となった[12]。廃藩置県により名古屋県となった後の1871年(明治4年)9月、県は一般庶民の学校として民間有志による「義校」の設置を奨励した[12]。1871年(明治4年)10月、最初の義校として第一義校(のち菅原尋常小学校や名古屋市立名城小学校などを経て、現在の名古屋市立丸の内小学校)が設立された[12]。 隣接する額田県でも「郷学校」設立が奨励され、1872年(明治5年)に名古屋県・額田県が合併して愛知県が成立すると、旧額田県域の「郷学校」も「義校」に改称した。愛知県が学制に基づく「小学校」の設置に乗り出した1873(明治6年)5月時点で、400校を越える義校が存在していた。 なお、岐阜県でも「義校」が設立された。 堺県の郷学校堺県では強力な行政指導によって郷学校が設立されたことが特徴とされる[13]。なお、堺の市内(堺市九間町の天神社内)には江戸時代より「郷学所」があったが、明治初年には「堺郷学校」への改名を経て「県学」と格上げされ、英語を教える中等教育機関と位置づけられた[14]。 1872年(明治5年)年2月、堺県は県域の河内国(河州)を29区、和泉国(泉州)を25区に分ける区制[注釈 3]を導入[13]。1872年(明治5年)年3月、県は寺子屋・私塾の廃止を指示、その師匠を吸収し[13]、各区に1校の郷学校(必要に応じて分校)を設置することが指示された[13]。 1873年(明治6年)4月13日、堺県で学制が施行され、従来の「郷学校」は「小学校」に再編された[13]。この際、小学校名は通し番号が採用された[13]。 民衆運動としての郷学校1871年(明治4年)、武蔵国南多摩郡小野路村(現在の東京都町田市)に、周辺諸村の有力者たちの決議によって小野郷学が開設された[5]。民衆運動としての着目からは、多くの自由民権運動の地域指導者を輩出したことで知られる[5]。小野郷学は1873年(明治6年)、学制による小学校設置に向け、合議によって解体された[5]。 明治初年の主な郷学校
参照:[23]
脚注注釈
出典
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